オジサンと若者が絶対的に交われない2つの価値観の違い

どうしてこうまで無神経になれるのか……
私が社会に出てから2年ほど経過するのですが、そのあいだ自分の中で永遠の課題となっていた「オジサンと若者はなぜわかりあえないのか?」という疑問に、現時点での答えが出たのでここに書き残しておきます。
続きを読む日向坂46『キュン』× tiktokの凄まじい戦略

2019年4月2日付けで発表されたオリコンCD売り上げチャートにて、日向坂46のデビューシングル『キュン』が47万枚を売り上げ1位になりました。
これは、女性アーティストのデビューシングルとしては歴代1位の初週売り上げだそう。
まず、そもそも日向坂46というグループ自体に「?」がつく人に向けて説明すると、
秋元康とソニーミュージックがプロデュースを務め、乃木坂46を中心とする「坂道グループ」のひとつが日向坂46です。
AKBでいうところのSKEやらNMBみたいなものですね(正確に言うと違うのですが)。
もともとは欅坂46の姉妹グループだった、けやき坂46(通称ひらがなけやき)がシングルデビューに伴い2019年3月から日向坂46に改名。その1stシングルが、今回取り上げる『キュン』。
彼女たちはひらがなけやきとしての活動期間が1年ほどあったため、すでに一定数のファンたちが育っており、満を辞してのデビューだったことから歴代1位になるほどの売り上げを記録したのです。
そしてそのPR活動の一環としてファンの間で話題になったのが、日向坂メンバーたちによるtiktok動画。
デビュー曲『キュン』のサビに合わせて振り付けを踊ったり、簡単に真似できるような可愛い仕草をつけたりした動画が日向坂46の公式アカウントから公開されたのです。
それはすぐに話題となり、動画公開から一週間ほどたった今でも #キュン および #キュンキュンダンス はホットワードとしてtiktokアプリで表示されています。
この現象だけだとピンとこないと思いますが、少し考えてみるとこのtiktok戦略があまりにも狙いすまされた計画のもとに行われていることに気が付いて震えます。
というわけで、今回は日向坂46がとった新しいPR方法について考察です。
全てがtiktok仕様にデザインされた楽曲『キュン』

tiktokは、2016年9月にサービスが開始された、ショート動画SNSです。
Youtubeが5分〜60分くらいまでと割とカロリーの高い動画サイトであるのに比べて、tiktokは平均して15秒程度の短い動画を投稿するサイト。
腰を据えて本格的な制作を行う必要があるYoutubeと比べて、あらかじめ決められたテーマや音楽に沿って撮影するだけで投稿できるハードルの低さと、他のSNSよりも比較的バズりやすい性質を持っていることから若者に非常に人気です。
さらに詳しいことは検索していただきたいのですが、tiktokが盛り上がっている背景として、
・15秒で見られる素早さ
・簡単にマネできる手軽さ
この2点が重要で、日向坂も下記のようにこの特徴を押さえに押さえたPRをしています。
それぞれ見ていきましょう。
単純すぎる『キュン』の曲構成
tiktokに上がっている日向坂の動画は、『キュン』のサビの歌詞に合わせてメンバー1名が本当の振りを踊る、2人で掛け合いをする、3人でキュンポーズをする、など人数ごとにパターンを変えて投稿されています。
秒数にしてぴったり15秒で『キュン』のサビ1フレーズがちょうど終わる流れです。
そして驚きなのがその歌詞の単純さ。以下はサビのフレーズ。
キュンキュンキュンキュン どうして
キュンキュンキュンキュン どうして
I just fall in love with you
秋元康が書いたとは思えないほどの語彙力の低さですが、何度か聞いているとこのフレーズが頭から離れなくなるのです。
その理由は二つあって、
・「キュン」という言葉を6秒の間に8回も繰り返している
・とにかく簡単な歌詞である
ことです。
人間の頭は単純にできていて、同じことを何度も何度も繰り返して言うことで簡単に刷り込みを行うことができます。
子供の頃に覚えた童謡や遊び歌をふとした時に思い出すのと同じ感じです。
それが『キュン』の歌詞にはかなり作為的にされていて、短い曲の中に42回もの「キュン」が出て来ます。もはや洗脳レベルの繰り返しです。
その言葉がサビの部分に集中していて、しかもサビの1フレーズの秒数はtiktokの平均値である15秒ジャスト。
この曲自体が、完全に「キュン」というワードをtiktokでバズらせる前提で作られているのです。
細かい歌詞は知らなくても、やたら出てくる「キュン」の言葉は知っているし、しかもその曲のタイトルはそのものズバリ『キュン』。
このびっくりするほどのわかりやすさによって、たった15秒で曲の紹介をすることに成功しています。
マネしてもらうための「お題」としての振り付け

tiktokのもう一つの特徴である、「簡単にマネできて投稿できる手軽さ」も日向坂46はしっかりと活用しています。
もともとtiktokがここまで流行った理由としてよく言われるのが、
「人間はお題を与えると答えたくなる生き物だから」というもの。
例えばテンプレートとして用意されている音楽に「言いなり選手権」があり、変顔だったりぶりっこポーズをリズムよく言われた通りにしていく動画がかなりの人気を誇っています。
それの何が面白いのかピンとこない人向けにtiktokから離れた例で言うと、『逃げ恥』の恋ダンスの動画投稿が大流行したことに近いです。
あの時も、「恋ダンス」というお題に日本中が乗っかったからこそあそこまでの広がりを持ったのでした。
日向坂に話を戻すと、画像にあるもともとのメンバー用の振りつけもシンプルでマネがしやすく、可愛らしく見えるポーズです。
しかし大事なのはそこではなく、公式アカウントから、「二人用」や「三人用」のダンス動画まで公開されていることです。
これらは一人用の振りよりももっと簡単で、なんならいくらでも遊びを利かせることが可能です。
そこまでバリエーションがあって、曲もキャッチーで、となったら確かにみんなマネしたくなっちゃいますよね。
では、現代である曲の売り上げを増やそうとした時に、『キュン』のような短くて覚えやすいサビで踊りやすいダンスのある曲を作りさえすればいいのでしょうか?
もちろん、違いますよね。
日向坂が他と異なるのは、tiktokでキャッチした人をファンにする流れまでをしっかりと作り込んでいるからです。
メディアを使い分ける日向坂の完璧な導線
乃木坂46をはじめとする通称「坂道グループ」は、基本的にSNSの個人使用を認めていません。
時代に逆行しているように見えるこのルールですが、結果として「ファンと簡単には繋がらない距離感」を作りAKBに代表されるようなファンコミュニティ型のアイドルと差別化することに成功したのでした。
そこに来て若者の最先端とも言える動画SNSのtiktokに日向坂公式アカウントができたことは、坂道グループのファンたちからしたら衝撃のできごとでした。
では、なぜtwitterでもyoutubeでもなくtiktokだったのでしょう?
それは、tiktokが日向坂を知らない若者たちへの最高のツカミとなるからです。
具体的に言うと、わずか15秒で「キュン」というフレーズさえ頭に残してもらえば、
日向坂46=キュン
の関係が人々の頭の中に結ばれます。tiktokの中で大量に存在するキュンキュンダンス動画を見て、もし日向坂に興味を持とうならそれでもう半分はファンになったも同然。
その人はYoutubeで「日向坂」と検索し、5分間のミュージックビデオを見るでしょう。
そしてMVを気に入ったら、違法アップロードにも関わらず「なぜか」消されていない日向坂の冠番組「ひらがな推し」(来週から「日向坂で会いましょう」に改題)に行き着くわけです。
オードリーがMCを務める「ひらがな推し」は純粋な番組としても面白く、日向坂のファンでなくても楽しめるように作られています。オードリーが最も輝いているテレビ番組だと言う人もいるくらい彼らの魅力が全面に出ているため、アイドル番組であるというイメージがかなり薄いのです。
まとめると、
tiktok(15秒)→「キュンダンス」ツカミ(ファン候補を大量に作る)
Youtube(5分)→「ミュージックビデオ」紹介・提案(じっくりと魅力を見せる)
テレビ(30分)→「ひらがな推し」深掘り(グループの楽しみ方を紹介)
このようなファン獲得の導線をtiktokをスタートラインにして見事に構築しているのです。
秒数の異なるメディアを使い分けることで魅力を切り取り、最後にはしっかりとファンのコミュニティに入れこむこの仕組み。日向坂のPRチーム、おそるべし。
実際このような割と新しめのメディアミックスの手法はよく使われているのですが、アイドル界の一大勢力である坂道グループが本気でやるとここまでの規模になるのかと驚くばかりです。
というわけで、日向坂46が行なっているtiktok動画の戦略性についての考察でした。
TSUTAYAの並びから見たレコメンド機能のあり方

近所にできたTSUTAYAのDVDレンタルが使いづらくてしょうがない。
正確に言えば、「思った場所に借りたい作品がない」のです。
例えば、人間味あふれるドラマでおなじみウディ・アレンの作品を借りようとTSUTAYAに入ったとします。
作品も具体的に、アカデミー賞を受賞したロマンチックコメディ『ミッドナイト・イン・パリ』を借りると決めている。
そこでまず私たちが取る行動と言えば「棚のジャンルを見る」ですよね。
TSUTAYAではおおまかに、
・ドラマ
・アクション
・SF
・コメディ
・ラブストーリー
などのジャンルが振られていて、そこからあいうえお順にDVDが並べられています。
ここで問題になるのが、『ミッドナイト・イン・パリ』はどのジャンルにあるのか?ということ。
コメディの名手ウディ・アレンという肩書きから考えると、そのままコメディに入るべきですが、『ミッドナイト・イン・パリ』はれっきとしたラブストーリー。
そのように予想してラブストーリー棚の「ミ」の列を探しても、見つからない。
「では、コメディだろうか?」と探しても、ない。
ひどい時にはドラマの棚を探してもなくて、冬場に静電気を無差別に放射しまくる検索機械のところまで行って検索をかけると、
「その他のドラマ」というジャンルにあったりする。
「その他ってなんだよ!!」
こんな風に、TSUTAYAが定めた理解不能なジャンル分けに沿って店内を彷徨うハメになることがしばしばあるのです。
おそらくその大きな原因は、
TSUTAYA側のジャンル分けと、私の中のジャンル分けの認識が大きく異なっていること。
機械的に、ジャンルごとに作品を振り分けている店舗によると、『アイアンマン』と『ドクターストレンジ』がSF棚で、『ハルク』はアクション棚というスタン・リーも真っ青な陳列がされていたりします。
もちろん日本全国のTSUTAYAがそうなっているわけではないため、DVDの並びを見ただけでその店舗が映画オタク向けかどうか瞬時にわかってしまうレベルです。
端的に言うと、神レベルの店舗は映画好きの頭の中と棚の並びが一致しているのです。
神店舗SHIBUYA TSUTAYA
その最たる例がSHIBUYA TSUTAYA。
芸能人もよく利用することで有名ですが、レンタル可能な作品数も全国屈指となっていて、「シブツタに置いてなかったらこの世にレンタルは存在しないと思え」とまで言えるほどの作品群を所有しています。
数が多いこともさることながら、最も感動的なのはDVDの並びです。
オーソドックスなジャンル分けはもちろんのことですが、
「監督別」・「国別」・「新人監督」・「注目監督」など、しっかりとカテゴライズされている。
そしてそのチョイスも絶妙で、例えば「日本映画の巨匠」棚を見てみると、
黒澤明・小津安二郎・木下恵介などの鉄板監督の横に、清水宏や実相寺昭雄などの「知ってる人は知ってるけど見たことない」監督の作品もしれっと並べられています。
実はこれが最もかゆいところに手が届いているポイントで、映画オタクの脳内では
日本映画→昭和年代の日本映画→小津・黒澤
という風に階層をつけて作品を理解していることがほとんどです。
つまり、「君たちが今想像してるフォルダの中には、こんな監督もいるんだよ」と理解しやすい形でレコメンドがなされている。
だから例えば、「イランの監督がこの間アカデミー賞外国語映画賞を取ったなあ」と言う思いのもとシブツタをうろつくと、「国別」の棚に行き着き、「イラン」棚を漁る。
そうすると、アッバス・キアロスタミを発見したりするわけです。
そんな風に、レコメンド機能が映画好きのためになされているわけだから、棚を回っているだけでとても楽しく、新しい発見に満ち溢れています。
では、ここで話をNetflixなどの配信サイトのレコメンド機能にまで広げてみましょう。
何を見たらいいのかわからない配信レコメンド

以前、最近映画にハマり始めてNetflixに登録したという友人から、「見れる作品は無限にあって、色々レコメンドされるけど結局何を見たらいいのかわからない」と言われました。
その意味するところは、機械的にジャンル分け陳列を行った店舗をあてもなく回るハメになった冒頭の私と似通っていますよね。
友人が本当に欲している情報は、「どの作品が見れるか」ではなく、「どれが面白くて、その作品をどのように見たら鑑賞体験が最大になるか」です。
例えば、上記は私のNetflixのホーム画面です。
コメディの欄には、
・スイス・アーミー・マン
・南極料理人
・グレムリン
・怪盗グルーのミニオン危機一髪
・夜は短し歩けよ乙女
が並んでいます。
これこそまさに機械分け陳列の最たるものです。
「死体となったダニエル・ラドクリフを駆使して無人島から脱出を図るドラマ」(スイス・アーミー・マン)と、「モグワイというペットが異常繁殖して街がとんでもないことになるファンタジー」(グレムリン)と、「ミニオンが可愛いアニメーション」(怪盗グルー)が混在しているわけで、
「コメディ映画見たいんだー!」と目を輝かせて聞いてきた少年に、こんな無秩序に作品をレコメンドする鬼畜は存在しません。
例えば『グレムリン』を見て感銘を受けた人がいたとしたら、
「監督はジョー・ダンテという人で、続編も作られたんだけど第1作にましてむちゃくちゃだから好き嫌い別れるよ。グレムリンの原案を出したのはクリス・コロンバスっていう『ハリー・ポッター』の初期作を出した人だから、まだ見てなかったらおすすめ。モグワイっていう可愛らしい生物が出てくる映画が気に入ったのなら、レコメンドにある『ミニオン』も……」
のように、その作品のどの部分を気に入ったかによって次に繋がってくる映画も変わってくるのです。
おそらくこのようなレコメンドは、まだAIには代替不可能なのではないでしょうか。
配信によって見ることのできる映画がほぼ無限にまで広がったことで生まれた意外な弊害は、「何を見たらいいのかわからない」ということ。
配信にお客さんを奪われている実店舗が打てる対抗策があるとしたら、こういうアナログな知識なのかもしれません。
「最強のメモ」講演で前田裕二さんに痺れる

先日、一橋講堂にて行われたNewspicksアカデミアの講演「最強のメモ」に参加してきました。
お目当ては、2018年末に発売されるや爆発的な広がりを見せているビジネス書『メモの魔力』の著者、前田裕二さん。
自分でもどういう巡り合わせか覚えていないながら、発売日に通称『メモ魔』こと本書を買い、その熱量と具体的すぎるフレームワークに感動。それ以来前田さん関連の情報は常にチェックしているのですが、今回『メモの魔力』に関する講演が開かれるということで、鼻息荒くNewspicksアカデミアのサブスクリプション(月額5000円くらい)を購入して参加したのでした。
講演の冒頭で前田さんは、
「せっかく時間とお金を使って来ていただいたのだから、それ以上の価値をこの場で提供したい」
と宣言。実際どうだったかと言うと、、、
5000円の100万倍くらいの価値がありました(複利込み)。
あの場にいただけでもその辺のセミナーのうん十倍価値があったと思うのですが、前田さんによってバッキバキに火をつけられた状態で会場から放り出されたため、これから先の行動を通じてさらなる価値が得られるのだと思いました(複利込みとはそういう意味です)。
講演の内容は、#最強のメモ #Newspicksアカデミア とかでツイッターを回れば見られると思います。
しかし内容はネットで読めても、「リアルな生物としての前田さんの凄み」だけはあの場にいないと掴めません。
「人を惹きつける力」、「自分に才能があると信じさせる力」。
この二つが飛び抜け過ぎていて、会場内の熱気がどえらいことになっていました。
若くして年商何億と稼ぐ天才実業家
一面を切り取れば、前田さんはこのように表現できます。私も実際、この講演に参加するまでは心の片隅でそう思っていたことは否定できません。
しかし、生で「前田体験」をした身からすると、
膨大な数の思考・行動によってとてつもない成長を遂げた男
だとわかるのです。成長の足跡がその姿からくっきりと見えます。
だからこそ、この人の言っていることは説得力があるな、自分もやりたいなという気持ちにさせられました。
どれだけ言語化できるかわかりませんが、昨日の講演で前田さんという個体から感じた印象を少しまとめてみます。
普通のお兄ちゃん
まず、登場した瞬間に驚いたのがこれ。
「どうもー。前田ですー、よろしくおねがいしますー」
姿勢を低くしながらひょろっと登壇するやいなや、第一声がこの力の抜けた感じ。
本当に、どこにでもいそうな優しい顔したお兄ちゃん。
その人が私たちが普段使うような、
めっちゃ・なんか・すごい・超
などのワードを連発する。
実はQ&Aの時に、「その親近感持てるワードチョイスは自己プロデュースなのですか?」とマジで聞こうと思ったくらい、言語選択が庶民的。
「若くして企業した、将来を嘱望されるIT社長」なのに、ものすごく我々に近い言葉で喋ってくれる。
このギャップでのっけから心を持って行かれました。
しかしだんだん議論が進んでいくと、この言語感覚のとてつもなさがわかってきます。
どんなに抽象的な話になっても、難しいカタカナや曖昧な漢字が羅列された言葉を一切使わず、一般的な言葉で表現しつづけるのです。
正確な表現かはわかりませんが、大学で専門的に学ぶ数学すらも、前田さんが説明したら幼稚園生でも理解できるのではないでしょうか。
とにかくわかりやすい。そして頭にものすごいスピードで言葉が入ってくる。
これは、『メモの魔力』で書かれている「抽象」「転用」を極めに極めた人が達することのできる境地なのではないか。
どんなに難しい概念でも、頭のフィルターでどんどん濾過して残った純粋な部分だけを言葉にして伝える。
前田さんの言葉を聞いていると、そういう思考の積み重ねが感じられました。
人の期待+αで跳ね返す習慣
これは講演の冒頭でも「コンビニでおにぎりの賞味期限を調べてと頼まれた店員」の具体例を通して話していたことです。常に相手の本当のニーズを察知して動くこと。
言葉にすると当たり前ですが、Q&Aの際に前田さんが見せた対応が最もそれを実践している例になっていました。
客席にいる人と直接やり取りをする流れになった時のことです。
質問者「メモ魔術(前田流メモの取り方のこと)を本にする前に他の人、例えば社員の人などに教えたのですか?」
前田さん、しばし考え……
前田「その質問の意図としては、自分はこの先本を出す予定などは特にないんだけど、会社で部下を抱えるなどしてチームを作った際、自分の仕事の方法論を教える場面に直面したらどうしたらいいのか参考にしたいということですよね?」
隠れたニーズどころの騒ぎではありません。
その質問者が置かれている状況、何に悩んでいるのか、自分はどの面から助言を与えるべきか、そんなことまで想像した上で答えようとしていたのです。
おそらく思案顔だった最中に質問を抽象化し、頭の中で検索をかけ、自分が持っているどの部分で答えるべきかに転用していたのだと思います。
私が講演中に1番衝撃を受けたのは、あの場面でした。
メモに覗かせる狂気
どんな場面でもメディアに出ているときは割とクールな顔を見せている前田さんですが、会場が大爆笑だった「地方で遭遇したタクシー運転手」の話の中に、ある種の狂気を垣間見ることができました。
「今は地方で運転手をしているけれど、去年までは20年間歌舞伎町でタクシー運転手をしていた。しかもその当時は売り上げナンバーワンだった」
この文言からして魅力満載のタクシー運転手さんに、前田さんは大変感銘を受けたとのこと。
そこから興味が分化していき、「なぜ歌舞伎町に」「20年の間奥さんとの関係は」「ナンバーワンになった理由は」など、様々な側面からファクトをかき集めたエピソードを披露した後に前田さんが放った一言、
「もう、こんな運転手さん抽象化したくてよだれジュルジュルじゃないですかぁ!」
狂気的すぎる。ビジネスに転用する術としてメモ魔術は紹介されているけれども、前田さんがメモを取る前提にあるのは
ただただ楽しいから
なのではないかと思いました。
「楽しい」の一言にまとめるのももったいないくらい、様々な快感が喜びがメモを取るという行為に結びついている、だからこそ本を出せるくらいまで人に語れる。
ただ、あの場で前田さんの「よだれジュルジュル」発言を聞いていた人たちが爆笑していたのは、その気持ちを共感できる人が多かったからでしょう。
身の回りの言語化されていない無意識を発見して、抽象化して、行動に変える。
「メモ魔術」は脳のスペックを使う作業ではありますが、それを超える楽しさがあるのも確かなのです。
というわけで、私の初めての前田体験レポートでした。
これから先もきっとイベントなどでメモ魔の卵たちとコミュニケーションを取ってくれる場があると思うので、気になった方はぜひ参加してみてください!(もれなく私もその場にいることでしょう)
『運び屋』かっこいいジジイが見つめる現代

88歳になっても全く衰えることなく映画を作り続けているレジェンド、クリント・イーストウッド。
歳を重ねるごとに作品からどんどん贅肉が削ぎ落とされていき、町山智浩さんが言うところの「盆栽みたいな映画」を極めているイーストウッドの新作が『運び屋』。
90歳の老人が、州をまたいだ麻薬の長距離輸送人、いわゆる「運び屋」をやって逮捕されたという実話をベースにした映画です。
近年のイーストウッド作品の例に漏れず、派手さがある映画では決してないのですが、シンプルな中に豊かな感情が表現されている素晴らしい作品でした。
若者についていくことを放棄した老人
主人公であるアールは、孫娘のパーティにきていた青年に半ば騙される形で麻薬を売りさばいている組織の元に行くことになります。
そこでたびたび表現されるのが、「アールという90歳の老人を見る若者たちの視線」です。
簡単に言えばアールは若者から爺さんだと舐めてかかられているのですが、そのことに対して彼自身は抗議するわけでも、見返してやろうと奮闘するわけでもない。ただ、「自分は戦争に行っていたから、多少のことでビビッたりはしないよ」と大きく構えているだけ。
また基本的なストーリーの軸となる「麻薬取締官とアールの捜索・逮捕」の面においても、車種・色まで絞り込まれた末にアールが堂々と車を運転していても捜査の手は及ばず、まったく関係ない人を取り調べたりしています。
若者たちの生きる世界においては、アールのような超高齢者は存在しないも同然のような扱いなのです。
そのことはアール自身の行動にも表れていて、例えばもともと経営していた花の農園はインターネット通販の普及によって廃業に追い込まれていたり、舞台設定である2017年においてもスマホを一度も使ったことがなかったりします。
若者から見たらアールは目に入らないし、アールからしても彼らの文化に合わせる筋合いもない。
そんな風に、よくある若者ー高齢者の関係から一歩踏み込んだ断絶が映画の中で起きているのです。
アールが本当に運んでいたもの
「麻薬の運び屋としての長距離移動」という少し変則的な形をとってはいますが、本作はジャンルで言えばロードムービーなのでしょう。
若者に迎合したりせず自分の世界の中で好きに生きているアールですが、麻薬組織の若者や彼を追いかける麻薬取締官(ブラッドリー・クーパー)が彼に関わっていく中で少しずつ影響を受けていく。
決して年寄りの価値観を押し付けるわけではなく、彼自身のカッコイイ生き様がそこに表れているからこそ、何か若い世代に欠けている大切なものがあるのではないかと教えられるのです。
犯罪を通して人と人の繋がりが回復していくというストーリーは昔からよくありますが、ここまでシンプルなのに力強い作品は久しぶりです。
作品レコメンド
イーストウッドの『運び屋』を見て少しでも心にひっかかった人は、次はこんな映画を見てみるといいでしょう。
・『ノーカントリー』
・『ストレイト・ストーリー』
・『グラン・トリノ』
『ノーカントリー』

コーエン兄弟監督による、アカデミー賞作品賞を受賞したサスペンス映画です。
「今の犯罪にはついていけない」という、トミー・リー・ジョーンズ演じるベテラン刑事の独白が印象的な作品で、凶悪化していく犯罪に全くついていくことができなくなってしまった刑事の苦悩が描かれます。
「かつて自分が生きてきた時代とは全く異なる論理で動いている世界」を題材にしている点では、『運び屋』との関連を指摘する声も多数上がっています。
『ストレイト・ストーリー』

みんな大好きデイヴィッド・リンチ監督。
カルト的な作品が目立つ彼の中では珍しいヒューマンドラマ。
疎遠だった兄が倒れたという知らせを受け、アイオワ州からウィスコンシン州までの道のり約560kmを時速8kmの芝刈り機で移動した実話を映画化したロードムービーです。
ことあるごとにぶっ壊れる芝刈り機を操って兄の元へ向かう主人公を様々な人が応援したり、時には騙されたり、それでもたくさんの素敵な出会いが彼を待っています。
家族を巡っての物語であるという点で、『運び屋』を『ノーカントリー』×『ストレイト・ストーリー』だと表現することもできると思います。
『グラン・トリノ』

イーストウッドが2008年に監督した作品。
実は本作が『運び屋』の精神的な前作にあたるのではないか?と私は思っています。
退役軍人であるイーストウッド演じる主人公と、移民の息子であるタオ。
保守的で頑固なオヤジだった彼が移民コミュニティに交わっていく中で、これからの時代に必要とされているものはなんなのかを考えさせられます。
これもまた一つの、「若者が老人との新しい繋がりを築いていく」映画です。
というわけで、88歳にしてさらなる進化を続けている驚異の男、クリント・イーストウッド。彼の次回作にも期待です。
『アベンジャーズ』よ、オスカーに輝け!

今年のアカデミー賞の傾向を見ていて割と、いや、かなりの勢いで私の中で生まれたある予想がある。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』、来年のオスカーで作品賞獲るんじゃないか??
数年前まではこんなことを言っても誰も賛同してくれなかったかもしれないが、今となっては頷いてくれる人も少なくないと思う。
マーベルが初めて『アイアンマン』を作ってから10年。ヒーロー映画はかつてのような単なる娯楽映画から離れて、強い社会性を持つようになった。
さらに『ロード・オブ・ザ・リング』以降、大作映画と言われるエンターテイメント性の高い作品が長い間オスカーから離れていたが、ついに今年『ブラックパンサー』が作品賞にノミネートされ、躍進を遂げた。
今年のオスカーが娯楽作から私小説的作品まで、これまで考えられなかったような幅の広さで映画を表彰していた姿を見ていると、アベンジャーズシリーズの集大成となる『エンドゲーム』の出来次第によっては来年の賞レースの先頭を走ってもおかしくないように思えるのだ。
ということで、映画界・マーベル映画の両面から『アベンジャーズ/エンドゲーム』がオスカーを獲る理由について考えてみよう。
『ロード・オブ・ザ・リング』の前例

前述したように、最後に娯楽映画がアカデミー賞作品賞を受賞したのは、2003年公開の『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』まで遡る。今からなんと16年も前!
それまでは実は『タイタニック』や『ブレイブハート』と言った、割と一般の観客からも愛された映画が数年に一度の割合で作品賞に輝いている。さらに遡ると『ロッキー』だったり『サウンドオブミュージック』だったり、今もよく知られている作品の名前が数多く並ぶ。
オスカーは必ずしも小難しい映画を表彰する団体ではなかったのだ。
そしてここ最近の雰囲気を見ていると、その流れが戻ってきているように感じる。
例えば提案段階で猛反対にあったけれども、今年のオスカーには「娯楽映画賞」なる部門が設けられることが真剣に討論されていた。
これは明らかに『ブラックパンサー』に日の目を当てたいという思いからきているものだったと思う(ディズニーの見えざる力が働いた可能性も0ではないけれども)。
結果的には娯楽映画部門はなくなったものの、『ROMA』や『女王陛下のお気に入り』と言ったかなりの映画鑑賞的な経験値を必要とする「秀作」と、深い意味がわかってもわからなくてもみんなが楽しめる『ブラックパンサー』が同じ土俵に立っているのは最近のオスカーにはない光景だった。
そんなわけでヒーロー映画という「娯楽超大作」にも評価の流れがきていることに加えて、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』の例がかなり参考になる。
というのも、シリーズ全体で映画としての出来で言うと『王の帰還』よりも『二つの塔』の方が優れていた(という声が多い)からだ。
ではなぜそんな『王の帰還』に作品賞が与えられたかというと、『ロード〜』というシリーズが与えた映画界への功績に対する功労賞的な意味合いがあったからだという。
簡単に言えば、『王の帰還』に作品賞をあげたのではなく、3年で3作公開された全てのシリーズ作品に対しての賞ということだ。
もしこの流れがこれまでの10年間の集大成となる『エンドゲーム』に適用されるとしたら、『王の帰還』と同じパターンになってもおかしくない。
『エンドゲーム』で描かれるテーマ

もちろん、作品として素晴らしくなければオスカーには見向きもされない。
しかし、『エンドゲーム』には素晴らしくなることが予想できる要素がいくつもある。
簡単に二つにまとめると、
・現代アメリカにおける「正義」の問題を真剣に問うている
・マーベル映画を根本から変えた天才・ルッソ兄弟の集大成である
となる。特に一つ目の理由は大きい。
アベンジャーズが問う正義
アベンジャーズシリーズは、『キャプテン・アメリカ/ウィンターソルジャー』あたりから、かなり意識的に現代社会における正義の問題を取り扱ってきた。
『ウィンターソルジャー』にしろ『シビルウォー』にしろ、いつもキャプテンアメリカが戦うのは「目の前で困っている一人を救う正義」を守るためであり、「誰かを事前に排除したりすることで得られる先々の正義」とは対立してきた。
それが極限まで高まったのが『インフィニティーウォー』であり、「全宇宙の種を守るために平等に半分の生命を消滅させる」という、宇宙規模で考えれば正義である論理を持つサノスと、キャップを中心とする「目の前の人を守る正義」を持つアベンジャーズが対決し、サノスが勝利する衝撃の結末を迎えた。
一度破れたアベンジャーズの正義は、一体どのように復活し、変化するのか。変化しないのだとしたら、どう守るのか。『エンドゲーム』で終結する正義の問題は、今のアメリカ社会どころか世界中が悩んでいる問題でもある。
そういう意味で、『アベンジャーズ』シリーズはいつの間にか大きな社会的意味を持つ作品にまでなっているのだ。
ルッソ兄弟の集大成
そしてマーベル映画にそこまでの社会情勢を乗せたのが、前述の『ウィンターソルジャー』からキャプテンアメリカ作品および『インフィニティーウォー』、『エンドゲーム』の監督を務めるルッソ兄弟である。
正直言ってマーベルスタジオは、
・ルッソ兄弟
・ジェームズ・ガン
・ライアン・クーグラー
の三人の天才がMCUに関わらなければ、ここまでの規模にはなれなかっただろう。
特にルッソ兄弟の功績は大きく、キャップの第1作『ファーストアベンジャー』でうまくいかなかった点(ハルクやソーに比べアクションがどうしても劣る)を、007のようなポリティカルサスペンスに舵取りをすることで絶対的な長所に変え、さらにマーベル作品全体に社会的意味を持たせても浮かないことを『ウィンターソルジャー』を通して証明した。
『アイアンマン3』や『ソー2』などで地獄のような作品を連発していたこの時期のマーベルは、『ウィンターソルジャー』によって突破口を見出すことになる。
その流れをヒーロー群像劇として描くことにジェームズ・ガンが成功し、ライアン・クーグラーが黒人ヒーローを通して現代とシンクロさせて『インフィニティーウォー』へと繋いだ。
正直この記事一つで書くにはあまりに複雑すぎる流れなのでまたの機会に譲るが、ルッソ兄弟が作り上げた「現代社会の正義とは何か?」を体現するヒーロー像は『エンドゲーム』で一区切りを迎え、さらにルッソ兄弟自身も次作でマーベル映画から卒業することを公言している。
つまり、アベンジャーズ自体も一つの正義の形を示して終わることが濃厚で、ルッソ兄弟の熱意も尋常ではないことが現時点でわかるのだ。
空想や期待も混じってはいるが、娯楽映画がオスカーの舞台で再び評価されるようになってきた情勢と、現代社会をヒーローを通して描くマーベルの集大成として、『アベンジャーズ/エンドゲーム』が来年作品賞を受賞する姿が見えてとてもワクワクしている。
アカデミー賞は『ROMA』をどう評価したのか

第91回アカデミー賞は、『グリーンブック』が作品賞の栄冠に輝いて幕を閉じた。
しかしその直後のWOWOWアカデミー賞中継スタジオの雰囲気が物語っていたように、「なんとも言い難い」モヤモヤが残った。
『グリーンブック』が決して悪い映画だと言っているわけでは決してない。近年オスカーとの直結度の高さから注目されているトロント映画祭の最高賞である観客賞を受賞し、大きな前哨戦3賞の一つである「全米プロデューサー組合」も受賞した評価の高い作品である。
ただ、あまりにも素晴らしすぎた『ROMA』を差し置いて作品賞を受賞するには……
そんな空気が鮮烈に感じられ、例年にない混戦として盛り上がっていたオスカーの締めくくりとしては少し盛り上がりに欠ける展開になってしまった。
『ROMA』が作品賞を獲れなかった理由

『ROMA』が作品賞にふさわしい理由が数多くある一方で、本作がアメリカ映画の祭典であるアカデミーに評価されない理由が二つ、大きな壁として立ちはだかった。
・メキシコ語による外国語映画であること(アメリカ映画ではない)
・Netflix配信限定の映画であること(劇場にかかっていない)
簡単に言うと、「これはアカデミーが表彰する映画の範疇外」だということ。
一部保守的な映画人たちの中には、「映画とは映画館で鑑賞するもの」という感覚は根く残っていることは確かであり、私も実はその考えには一部賛同する。
というのも、『ROMA』自体もPCの小さなモニターで見るには惜しいほど映像が美しく、何層にもレイヤー分けされた人々の動きを完璧に捉えるにはやはり大きなスクリーンのスケール感が欲しい。
ではなぜそんな映画がわざわざNetflix配信になったのかというと、単純にそこ以外製作の手を挙げなかったからだ。
「メキシコでかつて家政婦をしていた女性を、アルフォンソ・キュアロン自身の実体験を交えて描く私小説的な作品」という、どこをどう切り取れば興行収入を挙げられるか不安要素だらけの映画は、どこもお金を出さなかった。
しかし、既に作家性の高い監督の作品を次々に支援してきたNetflixがキュアロンに救いの手を差し伸べ、今回の大躍進が始まった。
つまり『ROMA』という映画は「一度アメリカ映画として否定されながらも、配信という新たな手法を通じて公開し、アメリカにその価値を認めさせた作品」なのだ。
そんな経緯を考えると、この映画に外国語映画賞や監督賞はあげても、作品賞まで与えることはアカデミー会員としては許せなかったのかもしれない。
保守的なアカデミー会員

そもそもアカデミー賞は、この種の技術的・伝統的に革新性のある作品をたびたび冷遇してきた。
例えばジェームズ・キャメロンが全世界に先駆けてフル3D映画として公開して衝撃を与えた『アバター』。これは『ハート・ロッカー』に作品賞を譲ったが、これ以降3Dや4D、IMAXといった従来の映画体験を更新するような技術が映画界のメインストリームになった。
そして『ROMA』と同じくキュアロンが監督した『ゼロ・グラビティ』。こちらも多くの部門を受賞したが、『それでも夜は明ける』が最後の最後で作品賞をさらっていった。ゼロ・グラが築いた、様々なカットをCGで合成して1カットに見せる技術や、極限まで俳優に近づいて観客を強制的に感情移入させる手法などは今の映画界のトレンドとなっている。
アカデミー会員たちが作品賞に選んだ作品が映画として劣っているとかそういう話ではなく、後々になって振り返ってみて誰もが思い返すその年の映画は「アカデミーが本心では評価しなかった」作品たちばかりだ。
では、今まで挙げた例を『ROMA』に当てはめて考えてみよう。
作品賞こそ『グリーンブック』に譲ったものの、配信サイトを通して作家性の強い作品を成立させ、自らが築いた映画界のトレンドとは逆のカメラを引いてじっくり俳優を見せる手法に原点回帰した。
数年後、アカデミー会員が選ばなかったこれらの新しい配給方法・撮影手法はどうなっているだろうか?
少なくとも、ネット配信へと有名監督たちがこぞって向かっていくこの流れは止めることができないと私は思う。
それでも見えた変化
ここまで批判的なことを書いてきたが、確かに今年ネット配信に栄冠を与えるのは時期尚早という考えも理解できなくはない。
ある意味での伝統的な「映画」という興行形式や製作手法を守るためには、「今」ネット配信を全行程するにはリスクが大きすぎるのかもしれない。
つまり、ノミネートリストには入れるなどの面で正当に評価はするものの、最大の栄誉を与えるほどのドラスティックな変化は望んでいないと言うことだ。
では、アカデミー賞がこのまま保守的な会になるかと言うと、それもまた違う。
今年のノミネートを見ると、一昨年前に「白すぎるオスカー」と言われていた頃とは大違いだ。
『それでも夜は明ける』が切り開いた黒人映画の道は『ブラックパンサー』に引き継がれ、ライアン・クーグラーという天才をオスカーの舞台に乗せたし、
『ゼロ・グラビティ』に端を発したメキシコ系監督たちの躍進は凄まじく、ここ5年で4度、メキシコ系監督が監督賞を受賞している(昨年の長編アニメーション賞『リメンバー・ミー』もメキシコを舞台にした映画だ)。
さらに今年の監督賞を国籍別で見てみると、
・アルフォンソ・キュアロン(メキシコ)
・ヨルゴス・ランティモス(ギリシャ)
・アダム・マッケィ(アメリカ)
・スパイク・リー(アフリカ系アメリカ)
・パヴェウ・パヴリコフスキ(ポーランド)
と、信じられないほど多岐に渡っている。
授賞式の中にも『クレイジー・リッチ!』に出演していたアジア系の俳優、『ROMA』を紹介するメキシコ系やラテン系の俳優など、まさに今の映画界を象徴するかのような多様性に富んでいた。
人種や国籍という面においては、アカデミー賞、ひいてはアメリカの映画界もここ数年でかなり変化した。ここにさらに配信も加えるというのは、確かに荷が重すぎるのかもしれない。
しかし、あと数年もすればそんな状況も確実に変わるだろう。
もしかしたら劇場公開を一度も経験していないネット配信映画出身者がオスカーを獲る時代だってそう遠くないかもしれない。
今回は「半分Yes・半分No」くらいの回答にとどめていた配信映画が、怒涛のようにオスカーに押し寄せる日はもうすぐそこまで迫っているのだ。
『名古屋行き最終列車』の全国人気に見える、テレビの新しいカタチ

ORICON NEWSに、名古屋テレビ(テレビ朝日系列)が制作しているドラマ『名古屋行き最終列車』を例に出してローカルドラマの存在感がここ最近増してきたという記事が出ました。
『名古屋行き最終列車』も話題、“都落ち”感なくなったローカルドラマの立ち位置の変化 | ORICON NEWS
あえて郊外から名古屋へ向かう列車を舞台として設定することで、その列車に対しての愛着を持っている人たちから絶大な共感を得ることに成功したそう。実際にこの電車が名古屋周辺に住む人々にとって意味するものは大きいらしく、それもまた地域密着型ドラマとして注目を浴びたきっかけになったとか。
『名古屋行き〜』のドラマ単体の考察に関してはORICONの記事に譲りますが、注目すべきは全国ネットでない番組がニュースになるほどの人気を持ったこと。
最近、ネットの見逃し配信が盛んになってきたことで、このようなローカル局の番組が全国的な知名度を誇るようになることも珍しくありません。
有名なのは、千鳥がMCを務める『相席食堂』です。これは関西ローカルの番組ですが、Tverでの見逃し配信を通じて関東の視聴者を獲得しています。
そして、実はこのようなローカルなスタイルが「テレビにとっての新しいビジネスチャンス」を生むのではないかとその価値が再び見直されているのです。
今回は、そんな「古くて新しい」ローカル放送の可能性について見ていきましょう。
そもそもローカル局とは?
私たちは特段意識しないで「ローカル局」と口にしていますが、これは実際のところどういう立ち位置のテレビ局なのでしょうか?
代表的なのは、各キー局と協定を結んでいる系列局です。
系列局は名前の響きからするとキー局の子会社のような印象を受けますが、実はそうではありません。
一番わかりやすいのは、フジテレビと関西テレビの関係性でしょう。
関西テレビはフジテレビから番組を買い取って放送していますが、自局での番組制作も行なっており、オリジナルコンテンツの放送もしています。
代表的なのがドラマで、これは火曜9時から放送のドラマをフジテレビが逆に買い取る形で流しています。
つまり、両者は親分ー子分の関係ではなく、対等なビジネスパートナーなのです。
実際地方に行くと、一つのチャンネルの中でフジテレビの番組も日テレの番組もやっていたりしますよね? これはその地方局が両方の局と番組のやりとりをしているからです。
こんな風に、ローカル局は関東のキー局から番組を買ったりはするものの、自社制作の番組を売り込んでいくなどの独自の番組編成権を持っているんですね。
ネット放送の恩恵を大きく受ける存在
しかし、ローカル局の経営はここ最近厳しくなっています。
そもそも広告出稿(CM)によって成り立っているのがテレビビジネスですから、地方に行けばいくほど大口の取引先は少なくなっていきます。
ローカル放送で個人商店などの手作り感溢れるCMを見ること、ありますよね。
そんな状況だとやはり収入は少なくなりますし、それが制作費にダイレクトに直結します。
視聴者の数自体も関東地方ほど多くはありませんから番組が届く絶対数も少ないですしね。
そこに登場したのが、「Tver」をはじめとするネットの見逃し配信サービスです。
テレビ放送では電波の関係で物理的に見ることができないローカル局の番組も、ネットを介して簡単に見ることができるようになりました。
キー局が打ち出すような最大公約数的な内容ではない、地域に密着した小さな番組はかなり新鮮に映りますよね。
そんなことから一つのローカル局の番組に全国的に「熱狂的なファン」がつく現象が少しずつ出てきました。今回記事になった『名古屋行き最終列車』もその一例でしょう。
実は、この「熱狂的なファン」をゲットしていく番組作りが、今後のテレビ業界を変えていく鍵になると思うのです。
テレビがまだ手をつけていない鉱脈
『おっさんずラブ』のインパクトをまだ覚えている方も多いかと思います。
あのドラマは実は業界の方式を逸脱した広がり方をしていて、内容自体もそうですがそちらの意味でも注目が集まっています。
それはファンコミュニティ向けのグッズ展開やイベント開催などで、広告収入以外のところからかなりの収益を得ていることです。
『おっさんずラブ』は視聴率的に見れば、かなり低空飛行の部類に入ります。
しかしその中には視聴率では測ることのできない「熱狂的ファン」が数多くいて、テレビ朝日は彼ら・彼女らに向けて様々なグッズを販売しました。
はるたん日めくりカレンダー、公式シナリオブックなど、ドラマの登場人物をさらに知ることができるようなグッズを数多く制作し、それらを販売することでかなりの放送外収入を稼ぐことができたようです。
数年前の例でいうと、『逃げるは恥だが役に立つ』のDVDはドラマ作品としては異例の売り上げを誇り、その年のTBSの利益の多くが『逃げ恥』関連収益だったという話まであります。
こんな風にCM料以外で収益を得る方法はまだ数多くやられていないものの、当たればその年の会社の業績を変えてしまうくらいのインパクトを持っているのです。
なぜ、今までやられてきていないのか?
それは、このような「ファンコミュニティを形成して収入を得る」手法がどちらかというとテレビではなく、SNSが得意とする分野だからです。
アーティストで例えると、AKBの新曲のタイトルを知っている人は少ないのに、CDは100万枚売り上げていることと同じです。
好きな人たちが個人個人で好きなように盛り上がって、お金を使っていく。この流れは、幅広いマスにリーチ(アプローチ)してCMで収益を得ていくマスメディアの方法論とはかけ離れたところにあります。
テレビは漠然とした大多数であるマスに訴えかけることは大得意でも、個別に深いファンを作っていく掘り下げは不得意なのです。
その原因としては、テレビがツイッターや握手会のように双方向性の娯楽でないことも要因としてあるのですが、それよりもかつてのスタイルを簡単に変えることができなくなってしまった構造の方が大きいでしょう。広告代理店が間に入っていたり、長年取引がある大企業との関係性も微妙になってしまいます。
だからこそ、そこまで大規模なしがらみのないローカル局がこの手法をテレビとして先駆け的にできているのだと思います。
この動きが盛り上がっていけば、テレビのビジネス構造自体も変わっていくような大きな流れになっていくはずです。それだけに『名古屋行き最終列車』のニュースは、ローカル局の中に生まれたちょっとしたトピック以上の価値を秘めています。
炎上動画を垂れ流すテレビはただの拡散装置と化す?

昨今話題の「パンケーキ食べたい」動画。もとい、「バイトテロ」動画の話。
なぜ若者たちがこんな動画を後先考えずにアップしてしまうかとか、これはSNSという可視化ツールがあるから起きたことでこういう行動は若者に限ったことではないとか、そういう話ではない観点から考えてみます。
私がとても気になるのは、これを報じるテレビニュースの姿勢の話です。
私は正直言って、良いこと悪いことどちらにせよ「今、SNSで話題の〜〜」というニュースをテレビでやること自体が「テレビの緩やかな自殺行為」だと考えていて、その印象はこういう炎上系のニュースになると特に強くなります。
それは、こういった動画をテレビで取り上げることが、テレビ視聴者層という非SNS層への拡散行為以外のなにものでもないと思うからです。
つまり、「今、SNSで話題の〜〜」とアナウンサーが笑顔もしくは陰鬱な顔で原稿を読むたびに「テレビがネットのシェアボタンの一つと化していくのではないか」という結構真剣なお話です。
動画を流すことの無意味性
この記事の冒頭で、一連の動画のことを「パンケーキ食べたい動画」と呼びましたが、あのバイトくんの動画をテレビが流したことで一番有名になったのは「パンケーキ食べたい」のリズムと振り付けを作った芸人・夢屋まさるだと思います。
彼自身には全く責めを負うところはなくむしろいい迷惑でしょうが、私自身もテレビであの動画を見て「あ、ぐるナイに出てたパンケーキの人ってここまで浸透してるんだ」と知りました。
あの動画を見て印象に残るところなどそれくらいで、おでんを吐き出そうが魚を床に擦り付けようが特に面白みも何もありません。(あれは仲間内でバカをやるために撮影された動画でしょうしそれはある意味当然です)
テレビでアレを見た大多数の人は「バカだな」と一瞬思って終わりか、一番深く考えても「自分のよく行くところでやられてたら嫌だな」とちょっと不安になるくらいがせいぜいでしょう。
何を言いたいかというと、あれをテレビで流すことは社会に対して一ミリも得にならないし、「あ、こういうことしちゃダメなんだな、自分も行動を改めなきゃ」と若者を戒める効果も全くもってありません。あの動画を撮影した彼らがただただ永遠に滑り続けるだけですし、夢屋まさるのギャグが世間に浸透していくだけです。
さらに言えるのは、あの動画がおそらくインスタのストーリーズに掲載されたものだということ。
ストーリーズの動画は1日で消える仕組みになっていて、そこまで深く考えなくても動画を投稿できる気軽なシステムでインスタ利用者に人気です(1日で見れなくなるという軽い気持ちで撮影されたものだからこそあそこまでバカなことをネットに晒せたのでしょう)。
ということは、テレビ局側はわざわざ消えてしまった動画の過去ログをどこかからひっぱり出してきて、それを流していることになります。
もしTwitterに載せていたものだとしても元動画は削除されているでしょうから、やはりどこかから持ってきていることは同じでしょう。
確かに若者たちがした行為自体は悪質ですし、なんらかの形で抑止しなければいけないことは確かですが、映像を流すことにどれほどの意味があるでしょうか。
暇な人たちの興味を掻き立てたり、ニュースとしてインパクトを持たせる効果こそあれど、それがなかったからと言って私たちの受け取り方に大きな差は生まれません。
構造としては、若者の悪ふざけ動画を地上波という大規模な電波を使って拡散しているだけであり、フォロワー数の多いツイッターアカウントとやっていることは同じなのです。
ネットニュースの焼き直しかSNSの後追いばかりのテレビニュース
最近のワイドショーもしくは夕方のニュースを見ていると、政治関連の話をした後はだいたいが芸能人のゴシップか、「最近SNSで話題の〜」系トピックで占められています。
そのうちのゴシップネタは「芸能人の不倫・相撲取りのスキャンダル・謝罪会見」のどれか一つがほぼ1週間交代制で出現しては消費されていくスタイルになっていて、テレビを点ければワイドショーで誰かが誰かに対して怒って見せてはいるものの振り上げた拳は特に本気な訳でもなく……という不可思議な状況。
さらにSNS関連の話は消費スパンがゴシップよりも高速ですから、テレビが取り上げた頃には話題は別のものに移っていたりする。
そんな事情もあってテレビは最新の流行を紹介する媒体としてはネットに到底勝てなくなってしまったため、専売特許である芸能人のゴシップネタを中心に構成しても、そこにはもっと詳しい記事がネットニュースにあがっていて、テレビでやる情報はだいたいYahoo!に載っている。
こんな風に、ネットに速報性においては圧倒的大差をつけられ、情報量でも及ばない。残すものは「古くからある」ということで担保されている信頼性のみ……というかなり危機的な状況がテレビニュースにはあります。
つまり、「ここまでマスが解体された時代に、マスメディアとして何を伝えるべきか」がほぼ宙ぶらりんのままきてしまっているのです。
そんな時にSNSで話題の炎上動画をテレビで放映することは、果たして本当に意味があるのでしょうか。
ネット発の情報を、その図体の大きさを駆使してインパクトを加味して地上波に載せて拡散する。今テレビがやっていることは情報発信ではなく、ただのリツイートです。
スマホ画面の片隅にある一つのボタンくらいの機能しかテレビが持たないならば、人々が離れていって当然だと思います。
制作スタッフたちが時間のない中必死にニュースの素材をかき集めていることは確かにわかるのですが、その元を全てネットに求めてしまうのならば、これからテレビが衰退していく流れは止めようがありません。そもそもネットの一機関的な行為をしてしまっているのですから。
もうここまで情報が溢れ、個別化が進んでしまった時代ですから、テレビは無理してネットの後追いなんかしなくても既に持っている豊かなものを出していけばいいんじゃないかな、と思ったりもします。
という、テレビ業界の片隅からの報告でした。
