現役テレビ局員の映画・ドラマ研究記

在京キー局で暗躍するテレビマンが送る、読んだら誰かにこそっと話したくなる映画・ドラマの徹底考察! ※本サイトの見解は全て筆者個人のものであり、特定の会社を利するものではありません。

アカデミー賞は『ROMA』をどう評価したのか

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第91回アカデミー賞は、『グリーンブック』が作品賞の栄冠に輝いて幕を閉じた。

しかしその直後のWOWOWアカデミー賞中継スタジオの雰囲気が物語っていたように、「なんとも言い難い」モヤモヤが残った。

『グリーンブック』が決して悪い映画だと言っているわけでは決してない。近年オスカーとの直結度の高さから注目されているトロント映画祭の最高賞である観客賞を受賞し、大きな前哨戦3賞の一つである「全米プロデューサー組合」も受賞した評価の高い作品である。

ただ、あまりにも素晴らしすぎた『ROMA』を差し置いて作品賞を受賞するには……

そんな空気が鮮烈に感じられ、例年にない混戦として盛り上がっていたオスカーの締めくくりとしては少し盛り上がりに欠ける展開になってしまった。

 

『ROMA』が作品賞を獲れなかった理由

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『ROMA』が作品賞にふさわしい理由が数多くある一方で、本作がアメリカ映画の祭典であるアカデミーに評価されない理由が二つ、大きな壁として立ちはだかった。

 

・メキシコ語による外国語映画であること(アメリカ映画ではない)

・Netflix配信限定の映画であること(劇場にかかっていない)

 

簡単に言うと、「これはアカデミーが表彰する映画の範疇外」だということ。

一部保守的な映画人たちの中には、「映画とは映画館で鑑賞するもの」という感覚は根く残っていることは確かであり、私も実はその考えには一部賛同する。

というのも、『ROMA』自体もPCの小さなモニターで見るには惜しいほど映像が美しく、何層にもレイヤー分けされた人々の動きを完璧に捉えるにはやはり大きなスクリーンのスケール感が欲しい。

ではなぜそんな映画がわざわざNetflix配信になったのかというと、単純にそこ以外製作の手を挙げなかったからだ。

「メキシコでかつて家政婦をしていた女性を、アルフォンソ・キュアロン自身の実体験を交えて描く私小説的な作品」という、どこをどう切り取れば興行収入を挙げられるか不安要素だらけの映画は、どこもお金を出さなかった。

しかし、既に作家性の高い監督の作品を次々に支援してきたNetflixがキュアロンに救いの手を差し伸べ、今回の大躍進が始まった。

つまり『ROMA』という映画は「一度アメリカ映画として否定されながらも、配信という新たな手法を通じて公開し、アメリカにその価値を認めさせた作品」なのだ。

そんな経緯を考えると、この映画に外国語映画賞や監督賞はあげても、作品賞まで与えることはアカデミー会員としては許せなかったのかもしれない。

保守的なアカデミー会員

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そもそもアカデミー賞は、この種の技術的・伝統的に革新性のある作品をたびたび冷遇してきた。

例えばジェームズ・キャメロンが全世界に先駆けてフル3D映画として公開して衝撃を与えた『アバター』。これは『ハート・ロッカー』に作品賞を譲ったが、これ以降3Dや4D、IMAXといった従来の映画体験を更新するような技術が映画界のメインストリームになった。

そして『ROMA』と同じくキュアロンが監督した『ゼロ・グラビティ』。こちらも多くの部門を受賞したが、『それでも夜は明ける』が最後の最後で作品賞をさらっていった。ゼロ・グラが築いた、様々なカットをCGで合成して1カットに見せる技術や、極限まで俳優に近づいて観客を強制的に感情移入させる手法などは今の映画界のトレンドとなっている。

アカデミー会員たちが作品賞に選んだ作品が映画として劣っているとかそういう話ではなく、後々になって振り返ってみて誰もが思い返すその年の映画は「アカデミーが本心では評価しなかった」作品たちばかりだ。

では、今まで挙げた例を『ROMA』に当てはめて考えてみよう。

作品賞こそ『グリーンブック』に譲ったものの、配信サイトを通して作家性の強い作品を成立させ、自らが築いた映画界のトレンドとは逆のカメラを引いてじっくり俳優を見せる手法に原点回帰した。

数年後、アカデミー会員が選ばなかったこれらの新しい配給方法・撮影手法はどうなっているだろうか?

少なくとも、ネット配信へと有名監督たちがこぞって向かっていくこの流れは止めることができないと私は思う。

 

それでも見えた変化

ここまで批判的なことを書いてきたが、確かに今年ネット配信に栄冠を与えるのは時期尚早という考えも理解できなくはない。

ある意味での伝統的な「映画」という興行形式や製作手法を守るためには、「今」ネット配信を全行程するにはリスクが大きすぎるのかもしれない。

つまり、ノミネートリストには入れるなどの面で正当に評価はするものの、最大の栄誉を与えるほどのドラスティックな変化は望んでいないと言うことだ。

では、アカデミー賞がこのまま保守的な会になるかと言うと、それもまた違う。

今年のノミネートを見ると、一昨年前に「白すぎるオスカー」と言われていた頃とは大違いだ。

『それでも夜は明ける』が切り開いた黒人映画の道は『ブラックパンサー』に引き継がれ、ライアン・クーグラーという天才をオスカーの舞台に乗せたし、

『ゼロ・グラビティ』に端を発したメキシコ系監督たちの躍進は凄まじく、ここ5年で4度、メキシコ系監督が監督賞を受賞している(昨年の長編アニメーション賞『リメンバー・ミー』もメキシコを舞台にした映画だ)。

さらに今年の監督賞を国籍別で見てみると、

・アルフォンソ・キュアロン(メキシコ)

・ヨルゴス・ランティモス(ギリシャ)

・アダム・マッケィ(アメリカ)

・スパイク・リー(アフリカ系アメリカ)

・パヴェウ・パヴリコフスキ(ポーランド)

と、信じられないほど多岐に渡っている。

授賞式の中にも『クレイジー・リッチ!』に出演していたアジア系の俳優、『ROMA』を紹介するメキシコ系やラテン系の俳優など、まさに今の映画界を象徴するかのような多様性に富んでいた。

人種や国籍という面においては、アカデミー賞、ひいてはアメリカの映画界もここ数年でかなり変化した。ここにさらに配信も加えるというのは、確かに荷が重すぎるのかもしれない。

しかし、あと数年もすればそんな状況も確実に変わるだろう。

もしかしたら劇場公開を一度も経験していないネット配信映画出身者がオスカーを獲る時代だってそう遠くないかもしれない。

今回は「半分Yes・半分No」くらいの回答にとどめていた配信映画が、怒涛のようにオスカーに押し寄せる日はもうすぐそこまで迫っているのだ。