現役テレビ局員の映画・ドラマ研究記

在京キー局で暗躍するテレビマンが送る、読んだら誰かにこそっと話したくなる映画・ドラマの徹底考察! ※本サイトの見解は全て筆者個人のものであり、特定の会社を利するものではありません。

オジサンと若者が絶対的に交われない2つの価値観の違い

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どうしてこうまで無神経になれるのか……

私が社会に出てから2年ほど経過するのですが、そのあいだ自分の中で永遠の課題となっていた「オジサンと若者はなぜわかりあえないのか?」という疑問に、現時点での答えが出たのでここに書き残しておきます。

 

オジサンという生命体との出会い

私が就職した当初、会社内外でオジサンたちと接することが嫌で嫌で仕方がありませんでした。厳密に言うと、オジサンとはバブル入社と言われる現在50歳前後の人々のことです。

(オジサンには、文字通り"中年男性"を意味する「生物学的オジサン」と、"男女問わずに昭和的価値観に基づく行動をとる「精神的オジサン」の2種類が存在しますが、このブログでは後者の「精神的オジサン」について書いています)

酒を飲まないと会話ができない、残業=善だと思い込んでいる、休み中に平気で電話をかけてきてメールで済む要件を伝えてくる、大したことのない昔話を武勇伝として信じられないほど繰り返し語る……

世の若者たちそれぞれに「オジサン体験」があることだろうと思います。

あまりにも社会はオジサンで溢れていて、彼らと関わりを持たずに生活することは不可能なレベルです。

しかしそんな社会で暮らしている中で、あることに気がつきました。

「どうやらオジサンたちも、若者たちとのあまりの違いに戸惑っているらしい」

 

若者世代が「オジサンたちはどうしてこれほどまでに私たちの気持ちをわかろうとしないのだろう」と絶望している一方で、

オジサン世代も「こいつらの考えていることが全く理解できない」と嘆いているのです。

理解できない結果、自分たちのやり方で若者と関わろうとした末にセクハラやパワハラまがいのことをしてしまったり、コミュニケーションを取ろうと飲み会を企画しても嫌な顔をされる。

そうなってくると次第に諦めが出てきて、「昔はよかった」と武勇伝に花を咲かせて若者と向き合うことから逃げ出してしまうのです。

 

男性と女性の間にはお互いをわかり合うことのできない壁が存在するというのはよく言われることですが、

若者とオジサンの間にも、知らないうちに建設されて乗り越えることができなくなった高い高い壁があるのです。

では、一体どうしてそんなことになってしまったのか。

私は、2つの価値観の大きな違いが原因だと思います。

それは、

・時間に対する価値観の違い

会社というコミュニティに対する価値観の違い

です。

 

時間に対する価値観の違い

この違いを示す代表的な例は、若者の「電話」に対する嫌悪感です。

とある会社が、若者の電話離れを解消しようと新入社員研修の一環として電話研修を実施したところ、ツイッターを中心に世代を巻き込んだ賛否の声が多数でてきました。

若者側の主張としては、

「メールやチャットで済む内容をわざわざ電話で言う意味がない」

「電話に出ると作業・思考を全て中断するハメになる」

などが代表的なものでしょう。古い職場では若手が電話に出るという暗黙の(クソみたいな)ルールがありますから、作業をことあるごとに中断してくる電話へのネガティブイメージは強いです。

 

一方でオジサン側の主張としては、

「メールより電話の方が誠意が伝わる」

「すぐに対応してほしいときはメールより電話の方がいい」

など、情緒的なものから実用的なものまであります。

 

お互いの気持ちをまとめてみると、以下のように絶望的な違いが浮き彫りになります。

オジサン世代にとっては、肉声で「わざわざ」電話をして要件を伝えることが誠意ですが、若者世代にとってはメールで済む要件を「わざわざ」電話で伝えることは無神経になるのです。

つまり、オジサンたちには良いことである「時間をかける」行為が、若者には「時間を奪われる」行為へと認識が逆転しています。

 

もう一つ例を挙げます。これもまた根深い問題である「飲み会」についてです。

よく上の世代の人たちが言うのが、

「俺たちが若い頃は上の人たちに飲みに連れていってもらった

この言葉がまず私たちには全くもって信じられません。

相手が自分の尊敬する人だったり、話を聞きたい人、仲の良い友人など「時間を使ってでも会いたい人」であれば話は別ですが、自分の意志に反して、一度行くだけでその日の夜の時間を全て奪われる飲み会に参加することは

「上の人たちの飲み会に連れていかれた

という表現になります。

世代が変わって、誠意の表現が「相手に時間をかけること」から「相手の時間を奪わないこと」に変化したのです。

(もちろん時間をかけること全てが悪という話ではありませんが)

その理由として考えられるのは、

オジサン世代が青春を謳歌した1990年代と現代では時間を使うことのできるものの数が段違いに増えたことでしょう。

ネット、動画、ライブ、本、セミナー……

現代はコンテンツに溢れ、それらを満足に摂取するためには会社一つに時間を奪われている場合ではないのです。

これが、若者とオジサンの越えられない2つの価値観の違いの1つ、

「時間に対する価値観の違い」です。

 

会社というコミュニティに対する価値観の違い

 私が働いているような、古い昭和体質が染みついている会社で夜遅くまで働いているとオジサンたちにしばしばこういうことを言われます。

 

「お、頑張ってるな。」「会社に貢献してるな」

 

働き方改革のご時世によくもまあと感心しますが、このような「遅くまで働いていること」が「会社で評価されること」に無条件で結び付いている価値観が未だに根強いのです。

これは前の章でお話したことにも関係していて、「残業」という「会社に時間をかける行為」が「会社に対する誠意の表現」になっているからなのでしょう。

とにかく、「時間をかけること」が全ての頂点に来ているのです。

 

もう一度先ほどのシチュエーションを思い出してみてください。私が遅い時間まで働いているときに、「がんばってるな」と声をかける人はどんな人でしょうか?

もちろん、若手の私と同じ時間まで残業している人です。

つまり、「時間をかける教」の信者です。

 では、彼らはなぜ若者からすると全く理解のできないようなこの宗派に入信したのでしょうか。

それは、彼らが所属を強く意識できるコミュニティが会社家庭の2つしかないからではないかと思います。

会社の中で「時間をかけること」=「会社の中で評価されること」という構図ができあがっていれば、所属している会社というコミュニティで評価を高めるためには長く残ってさえいればいいのですから非常に簡単なゲームであり、合理的です。

 

それに対して、若者たちはどうか。

スマホがネットにさえつながっていれば、無数のコミュニティに参加することができます。

少なくとも、ツイッターのタイムラインも一つのコミュニティですし、趣味で繋がっていればそれも別のコミュニティ。一人のYoutuberを応援したい!と思えばその中でもコミュニティが出来上がります。

結び付きの強さではかないませんが、身を置くことのできるコミュニティの数がありすぎて、よっぽど若手が動ける場所でない限り会社に帰属意識なんて感じられるはずがないのです。

そして、会社というコミュニティが絶対でない以上、その他の場所でも自分の居場所を確保するためには、やはり時間を使うことが必要になる。

そうなると、会社だけに時間を取られている場合ではないのです。他に時間を使いたいコミュニティは無数にあるため、自然と効率的に動く必要が出てきます。

この考え方で行動すると、よほどのことがない限り貴重な時間を潰される「意に反する会社の飲み会」は費用対効果が最悪なのです。

若者が飲み会を嫌がる理由は、「オジサンと飲むのが嫌」なことよりも、「他のコミュニティに使える時間を奪われることが嫌」という方が大きいでしょう。

 

まとめ

私が考えた、「オジサンと若者が絶対的に交われない理由」をまとめます。

 

・コンテンツの増加によって、相対的に一つにかけられる時間が減少した。その結果、「時間を奪わないこと」を重視する若者世代の価値観が生まれ、「時間をかけること」を重視するオジサン世代の価値観とズレが生まれた

・所属することのできるコミュニティの数が増えたことにより、コミュニティとしての会社という場所の重要性が低下した。その結果、「会社という絶対的なコミュニティ」だったオジサン世代の価値観と、「会社というたくさんあるコミュニティの中の一つ」という若者世代の価値観にズレが生まれた

 

両者をまとめると似たような結論に行きついていますが、ここまで真逆の世界を生きる人たちが、お互い歩み寄らないまま働いていこうということに根本的な無理があるのです。

また、オジサン世代の価値観として「時間をかけること」を取り上げていますが、コンテンツのクオリティをあげるために時間をかける必要があることは私も大賛成です。私が言っているのは、「無駄に時間をかけること」なのでご注意ください。

 

というわけで、私のオジサン観察の一つとして2つの価値観の違い説を書いてみました。

反論や疑問などあれば一緒に考えてみたいので、ぜひリプやコメントをお願いします!