現役テレビ局員の映画・ドラマ研究記

在京キー局で暗躍するテレビマンが送る、読んだら誰かにこそっと話したくなる映画・ドラマの徹底考察! ※本サイトの見解は全て筆者個人のものであり、特定の会社を利するものではありません。

いだてん 宮藤官九郎が描く戦後大河

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2019年1月6日から放送の大河ドラマ「いだてん 東京オリンピック噺」。

脚本にNHK朝ドラ「あまちゃん」で知られる宮藤官九郎を迎え、中村勘九郎、阿部サダヲが2人でリレー形式で主人公を演じることになっています。

2020年の東京オリンピック開催に合わせ、1964年に日本に初めてオリンピックがやってきたお話を大河ドラマにするという新しい試みも話題になりました。

1960年代を「大河」というくくりで放送することに驚きを感じつつも、まず舞台となったのは前年の大河「西郷どん」から40年の時を隔てた1900年代。「最後の侍」として西郷が死んでからも大隈重信は生きていたりして、明治維新の立役者たちが世代交代を終えた直後くらいの時代感覚が残っていて、ドラマの継投も上手に行なっていましたね。

初回を見ただけでは長い大河ドラマの全体が目指すものを考えることは難しいですが、おそらく前半でこれは描かれるであろうという要素を各所に見ることができたので今回はそれを考えていきます。

もしかしたら「いだてん」は、これまで朝ドラが担っていた役割を大河でやってみようとする新しいドラマかもしれません。

二人の古今亭志ん生

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NHKの朝ドラおよび大河ドラマの一つの見所として、「語り手」の存在があります。

たとえば「まんぷく」では芦田愛菜ちゃんが語りとして冒頭で前回のおさらいをしたり、時には登場人物の内面に入り込んで心情を代弁したりしています。

「いだてん」の前年度大河「西郷どん」では、語りを西田敏行が務め、物語が進んでいくにつれて彼は西郷の息子だったことがわかっていきました。

 

「いだてん」で語り役として登場するのは、落語家の古今亭志ん生。

しかし脚本の宮藤官九郎はここに一つのひねりを加え、1900年代の路頭で荒れ果てていた志ん生と落語家として大成した1960年代の志ん生、二人の志ん生が往復運動をするように掛け合いをしながら物語を進めていく構造になっています。

「いだてん」の物語の流れとしては、初めてオリンピックに出場した金栗四三を追いかける1900年代編と、日本にオリンピックが来るまでを描いた1960年代編の前後編になることがわかっています。

初回では「この両者のお話が後で繋がるんだよ」という予告も兼ねてか、最初30分が00年代と60年代の往復、後半30分が四三の話という風になっていました。

第二回からは四三の若い頃の話が始まるみたいなので、たけし版の志ん生が出てくるのはしばらくお預けなのかもしれませんね。

 

クドカンと「語り」もしくは「ナレーション」で思い出されるのは、やはり朝ドラ「あまちゃん」でしょう。

あまちゃんでは語り手が半年間の間に3人入れ替わる(祖母の夏ばっば、母の春子、主人公のアキ)ことで、その時々の物語を見る視点を視聴者にわかりやすくするという効果をあげていました。

クドカン自身も自作のシナリオブックの中で、「ナレーションはあまちゃんを象徴するギミックである」と語っており、半強制的に「語り」が発生する大河ドラマでも遊びを入れてくるものと思われます。

では1900年と1960年と時間を横断して同じ人物を語りに据えたのはなぜなのか?

それは、この60年間でほぼ全ての日本人が経験する大事件が起こるからです。

 

戦争とオリンピック

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察しの通り、その大事件とは太平洋戦争のことです。

もともと東京にオリンピックがきたのは1964年が初めてでは厳密に言うとないんですよね。

実はその6大会前、1940年に東京にオリンピックが来ることが決まっていたのですが、日本国内における軍部の台頭や国際的な孤立、世界情勢の悪化などの理由によって中止となってしまったのです。(「幻の東京オリンピック」で検索すると出てきます)

その後起きた戦争によって日本がもう二度と立ち上がれないのではないかとまで言われるほどボロボロに傷ついても、もう一度オリンピックを開催することで戦後復興を印象付けたことは授業などで習ったことだと思います。

四三編ではこの辺りもやるのではないでしょうか。

また、初回では「スポーツ」と「体育」の違いも語られていましたが、これも大きなファクターの一つで、

その当時は「体育」とは「軍事力として男児を育成するため」のもので、「平和の祭典で競うため」の「スポーツ」とは相容れないものと考えられていました。

陸王を彷彿とさせる役所広司が演じた嘉納治五郎がその辺を訴えていましたよね。

つまり、この時点ですでに戦争に向かっていく方向性が示されているのです。

 

そして、このように「戦争」に向かっていく話をクドカンがNHKのドラマで描くことは偶然ではないように思えるのです。

なぜかと言うと、「あまちゃん」が「震災」へ向かっていく話だったからです。

 

昭和と平成の大事件

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東日本大震災が起きた時、震災復興を戦後復興に例えて乗り越えようとする言論が少なからずあったことを覚えている人も多いかと思います。

それくらい2011年3月11日は今の日本社会に多大な影響を与えましたし、震災前と震災後では社会のありようは一変しました。

それは平成に現れた「戦後」だったとも言えるのではないでしょうか。

2013年に放送された「あまちゃん」は、まだまだ震災を真正面から取り扱うテレビドラマが少なかった中で、ほぼ初めてそれらがテレビ画面に映し出された作品でした。

アイドルを目指す北三陸出身(気持ちの上では)のアキ。

そのドタバタコメディを楽しんでいた最初の方は何も気づかないのですが、有村架純が大ブレイクした春子編を過ぎ、語り手がその春子に変わった終盤になると様子が変わります。

アキのナレーションに、「2010年何月」とか、「2010年の暮れ」とか、時代設定を意識させるワードが急増するのです。

そうなってくると、この「あまちゃん」の世界が紛れもなく3.11を経験した私たちの世界に繋がってきて、「あ、このまま進むと危ない」という感覚になってきます。

これは映画「この世界の片隅に」でも使われた手法で、執拗に年月日を言い続けることで登場人物は知っているはずはないんだけど、作品を見ている我々が知らないはずはない出来事(本作では戦争、あまちゃんでは震災)を強烈に意識させるんですね。

「あまちゃん」では震災を期にかつてアキとアイドルを目指したユイちゃんがカムバックして被災地に勇気を与えるという感動的な展開が待っていましたが、

「いだてん」においては戦争は物語上の「中心部」に鎮座しています。

戦後復興の象徴となったオリンピックを描くのであれば、その大元となった「戦争」についても描く必要があります。

「あまちゃん」では平成の大事件「震災」を扱ったクドカンが、次は昭和の大事件「戦争」をどう描くか、見ものです。

 

朝ドラから大河へ

とはいえ、太平洋戦争をNHKのドラマが扱うのは特段珍しいことではありません。

朝ドラでは、現代劇以外はほぼ確実に登場人物が戦争を経験します。

 

ただ、大河と決定的に異なる点が一つだけあります。

朝ドラにおいて戦争を経験する視点は、主人公の女性目線です。

これは、朝ドラが女性主人公の物語なことから当然のことなのですが、第二次世界大戦が勃発した後、大抵は夫を戦争に送り出し、不在の夫を待ち続ける間に女性として自立して生きる初めの一歩を経験するというのが朝ドラの王道パターンの一つです。

 

しかし、今回は主人公は男性。つまり、NHKが通念を通して描くドラマとしては非常に珍しい、男性目線の戦争を見ることができるかもしれないのです。

「いだてん」終了後にツイッターなどで見られた意見の一つとして、「朝ドラっぽい」というものがありました。

出演者が精神的マッチョな男性ばかりでない(天狗倶楽部を除く)こともその要因の一つでしょうが、大きな要因はその時代設定にあるのではないかと思います。

女性目線の戦争を描く朝ドラから、男性目線の戦争を描く大河へ。

この転換は非常に歴史的なものではないでしょうか。

というわけで、これが「いだてん」初回を見て私が思ったことでした。