「飛べない豚はただの豚だ」
これは、宮崎駿の6番目の監督作「紅の豚」において、主人公の豚ポルコ・ロッソが言い放つ名セリフ中の名セリフです。
第一次大戦の英雄である彼は、戦後自らに呪いをかけて豚になりました。「紅の豚」では、そんな彼を撃墜して名誉を得ようとする空賊団との爽やかな決闘がロマンと少しの苦さと共に描かれます。
では、そもそもなぜ呪いをかけて姿を変える必要があったのか?そして、なぜ「豚」を選択したのか?そのことについては一切説明はありません。
公開から数十年を経た今になっても私たちが何度でも見てしまう本作の謎を、様々な手がかりに解明していきます。
ポルコが呪いをかけた理由
作中でジーナがフィオに語ったところによると、ポルコは戦争から帰ってきた後、自らに呪いをかけて豚になったのだそう。
ですが、呪いをかける必要性に関してはまったく言及がありません。
この原因については、ポルコがカーチスとの決戦前夜にフィオに話した戦時中の体験にあると考えられます。
ポルコは第一次大戦中、凄腕のパイロットとして名を馳せていた。しかしその腕が立ちすぎる故に、自分だけが戦争を生き延びてしまった。
これはとても印象的なシーンとなって表現されていて、大空で目覚めた直後「飛行機の墓場」をポルコが見てしまった、という風に説明がされます。
仲間たちはみんな戦争のせいで死んでいったのに、自分だけは生き残った。
このことから、ポルコは「戦争嫌いの飛行機乗り」になったのだと推測されます。
その証拠に、映画の序盤でポルコは大々的な軍事パレードの横を素通りしていきます。人々がムッソリーニ政権の軍勢に高揚し、声援を送る中、彼だけは脇目もふらずに歩き去っていくのです。第一次大戦の英雄であるはずのポルコにとって、戦争はもう自分の居場所ではないということです。
それでも、飛行機に乗ることだけはやめられない。しかし、その飛行機は戦争で人殺しの道具として使われる。では、どうするか。
人間の姿で飛行機に乗ることをポルコは拒否したのです。
そうすれば、人間の仕業である戦争とは無縁でいることができ、なおかつ飛行機に乗ってもロマンと名誉だけを追い求めていられる。
大きな目標を達成するために、自分の姿ではなく別の何かの姿を借りる。
この構造は、日本アニメに古くからあるものと同じです。
ウルトラマンもそうですし、ガンダムもそうです。主人公たちは敵を倒すため変身したり、ロボットに乗り込んだりします。
アメリカのヒーローたちはスーツを着たりしますが、基本は顔出しです。アイアンマンはトニー・スタークとして戦いますし、キャプテンアメリカなんてモロ顔が割れてます。
(なぜ日本ではこうなったのかは様々な考察がなされていますが、詳しくはまた別の記事でご紹介します)
この感覚と同じで、ポルコは豚に「変身」して空を飛ぶ力を得ました。
そして、なぜ変身するのが豚なのかは監督宮崎駿に理由があります。
宮崎駿は自画像をどう描くか
これは、宮崎駿がピクサーの25周年を記念してジョン・ラセターに送った自分のイラストです。
豚ですよね。
彼のフィルモグラフィを集結させたBOX、宮崎駿作品集でもこのイラストが使われています。
宮崎駿は、自分のことを描く時に豚をモチーフにするのです。
つまり、ポルコは宮崎駿の化身として豚の姿で空を飛びます。
よく知られている通り、宮崎駿は飛行機乗りに対する強い憧れがありました。
彼の幼少期はちょうど戦時中と重なり、自らもパイロットになりたかったのかもしれません。
しかし、敗戦と共に日本から軍事力は引き上げられました。この時に宮崎駿の飛行機への夢は、実際に操縦することから、空想の中にシフトします。
「戦争を嫌いだけれども飛行機が好きでしょうがない」という思想は、元は宮崎駿のものだったのですね。
ポルコは人殺し目的ではない存在として飛行機に乗るために別の姿を借りる必要があった。そして、監督である宮崎駿の分身として、豚の姿になった。
これが、ポルコが豚になった理由です。
「風立ちぬ」との表裏関係
「紅の豚」は、今から見ると恐ろしく「風立ちぬ」と対の関係になっていることがわかります。
まずその時代設定からしても、戦間期(第一次大戦と第二次大戦の間)から戦後までという点で一致しています。
そして主人公の造形も、恐ろしいほどに同じです。
ポルコは第一次大戦の経験から「戦争嫌いの飛行機乗り」になり、飛行機に乗るために豚の姿になります。
「風立ちぬ」の堀越二郎は「飛行機に乗れない飛行機好き」で、飛行機に乗れない代わりに自らが思う「美しい」飛行機を設計し続けます。
両者とも飛行機に(人間として)乗ることが叶わず、代わりに別の想像力を駆使して夢を現実にしているのです。
さらに、「紅の豚」で登場したあるシーンが、「風立ちぬ」で十数年越しにリフレインしています。
「飛行機の墓場」です。
ポルコにとっては死んでいった仲間たちの影であり、二郎にとっては自らが生み出した犠牲者たちです。
こうしてみると、ポルコと二郎はほぼ同じ罪悪感を抱えていることがわかります。
そしてそれはどちらも、宮崎駿の分身です。
このような「飛行機への夢」を軽やかにカッコよく描いたのが「紅の豚」で、その夢の裏を描く映画として「風立ちぬ」なのです。
宮崎駿映画が「飛ぶ」条件
ジブリの象徴とも言えるのが「飛行シーン」。そして「紅の豚」は最も「飛ぶ」ことに焦点を当てた映画です。
しかし、よく考えてみると映画の中でポルコが飛行機に乗っているのは10分から15分ほど。映画全編の5分の1ほどにすぎません。
物語としては、ポルコの愛機がカーチスに撃退されてからミラノでフィオと出会い、飛行機を改良して再び空に戻っていく、という部分がほとんどです。
実はジブリ映画の中で、「飛べない」状態から「飛ぶ」状態に戻っていくためにほぼ全作品で共通する条件があります。
それは、女性からの愛を受けることです。
今作で言えば、ポルコはフィオから愛されることで初めて空を飛ぶことができます。
他の作品を見てみましょう。
・天空の城ラピュタ
パズーが初めて自力で飛行機を運転するのは、ラピュタを見つけた直後、シータを連れて行った時。そもそもパズーが入る空賊は、ドーラという女性をボスにしている。
・千と千尋の神隠し
湯婆婆の呪いによって空を飛ぶことができなくなったハクは、物語終盤、千尋に愛されることによって飛行能力を取り戻し、湯屋へと帰っていく。
風立ちぬ
二郎の零戦開発が進んでいくのと反比例して菜穂子の病状は深刻になっていき、彼の最高傑作が完成すると同時に菜穂子は死ぬ。
唯一の例外は「魔女の宅急便」なのですが、これはまた別の理由があるので別記事で詳述します。
このようにジブリでは繰り返し「飛ぶ」ための悪戦苦闘が描かれており、その克服法は決まって女性の愛を得ることです。
では、フィオがポルコを飛ばせるための存在なら、ジーナはどうなのでしょう?
「風立ちぬ」から考えるフィオとジーナ
結論から言えば、フィオはポルコの飛行機乗りとしての理想を、ジーナは現実を象徴しています。
これもまた「風立ちぬ」に絡めて考えるとわかりやすいです。
「紅の豚」では、男性のポルコに対して女性はフィオとジーナの二人。
「風立ちぬ」では、男性の二郎に対して女性は菜穂子一人。
単純に考えるなら、フィオは菜穂子と同じ役回りです。
純粋で、飛べなくなった男に無償の愛を与えてまた空へ送り出す女性。
フィオはまだ飛行機持つ本来の恐ろしさを知らず、ただ美しいものとして設計しているのでしょう。ポルコにとって彼女は、かつての純粋に飛行機を信じていられた頃の自分です。
だから彼女を危険な目にはあわせたくないし、まして恋人にすることなどできない。
菜穂子に対する二郎もそうです。彼女の献身的な支えがなければ彼は飛行機を作り続けることはできなかったでしょうが、二郎自身が菜穂子を思いやる姿は作中でほぼ見られず、「ぼくは美しいものを作りたい」と言うだけです。
それでも、菜穂子は自分の役割をわかっていたから耐えられたのでしょう。
この「自分の目的のために献身的な女性の愛は受けるが、自分で責任は取らない」ジブリ的男性の特徴は、宮崎駿の第一回監督作「ルパン三世 カリオストロの城」で思いっきり出ていますが、何かわかりますか?
そう、あの名セリフ、
「奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」
は後の宮崎駿作品全てを貫くモチーフになっているのです。
対してジーナは、飛行機によってかつての恋人たちを失った女性。
彼女に愛されるということは、ポルコにとっての悲しい過去に責任を持つことを意味します。だから劇中ではジーナとポルコは結ばれません。
彼女の愛を受けては、ポルコは飛ぶことができないのです。
(劇中ではと限定をしたのは、エンディングの画像でジーナはポルコとの賭けに勝って愛を得たという分析があるからです。)
この理想と現実二人の女性を登場させる手法は、「もののけ姫」におけるサンとエボシの関係性とも同じですし、もしかしたら「千と千尋」の湯婆婆と銭婆の二人もそうかもしれません。
このように、「紅の豚」を読み解くに当たって「風立ちぬ」は非常に手がかりとなる映画です。この他にも、ジブリ映画には共通して何度も登場するモチーフがありますし、頻出セリフである
「いい名前だね」
にも意味があるのですが、それはまた別の機会に書きたいと思います。