現役テレビ局員の映画・ドラマ研究記

在京キー局で暗躍するテレビマンが送る、読んだら誰かにこそっと話したくなる映画・ドラマの徹底考察! ※本サイトの見解は全て筆者個人のものであり、特定の会社を利するものではありません。

「15時17分、パリ行き」が超越した、フィクションの中の英雄【感想・レビュー】

「15時17分、パリ行き」の画像検索結果

 以前、「アレッポ 最後の男」を現実がフィクションに侵食された現代を示したドキュメンタリーであると自分なりに感想をまとめました。実は今年3月に公開されたクリント・イーストウッド最新作「15時17分、パリ行き」はこのドキュメンタリーとまったく逆のアプローチを取ることで現代的な劇映画のあり方を更新しています。アメリカでの公開は2月。今年のアカデミー賞の監督賞にイーストウッドは本作で間違いなくノミネートされると私は予想しているのですが、あまり話題にはなっていません。この作品の何が新しいのか?それを解説していきたいと思います。

 

あらすじ

 2015年に起きたパリ行きの特急列車内で554人の乗客全員をターゲットにした無差別テロ襲撃事件。極限の恐怖と緊張感の中、武装した犯人に立ち向かったのは、ヨーロッパを旅行中だった3人の心やさしき若者たちだった。なぜ、ごく普通の男たちは死の危険に直面しながら、命を捨てる覚悟で立ち向かえたのか?本作では、なんと主演は"当事者本人"という極めて大胆なスタイルが採用された。実際の事件に立ち向かった勇敢な3人がそれぞれ自分自身を演じている。さらに乗客として居合わせた人たちが出演し、実際に事件が起こった場所で撮影に挑んだ究極のリアリティーを徹底追及した前代未聞のトライアル。我々はこの映画で"事件"そのものと立ち会うことになる。(作品公式HPより)

 

終盤まで筋書きがまったく存在しない映画

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この映画を見ていて衝撃的なのは、話の筋というものがほぼ存在しないことだ。序盤では、テロを食い止めた主人公たちであるスペンサー、アンソニー、アレクの幼少時代が描かれ、学校に馴染めない3人組がサバゲーなどを通じて親友になっていく様子が描かれる。やがて進学とともに3人は離れ離れになり、物語は3人組のうち、実際にテロリストと対峙したスペンサーを中心に進んでいく。大人になったスペンサーは空軍に入り、訓練を積み重ねる様子が示される。そして、成長しても交流を絶やさなかった3人組は、ヨーロッパ旅行を計画し、再び合流することになる。そしてそのヨーロッパ旅行の様子までで、94分の映画の内70分ほどが費やされる。途中途中にテロの現場のカットが挿入されたりするものの、大半はクラブで飲み騒いでいたり、観光地を巡ったりするなんでもない場面が繰り返される。大抵の映画であれば、シーンAとシーンBは因果関係で結ばれていて、シーンAで起きた衝突によってシーンBでは状況が更新される、といった起伏があるが、本作にはそれがほぼない。旅の途中で出会った女性と恋に落ちることもなければ、3人の友情に何かのきっかけでヒビが入るようなこともない。ただ、スペンサーが空軍に入るまでのいきさつや、仲良し3人組の旅行が単純な「出来事」として提示されるだけだ。普通の演出ならば、こんな作品は途中で退屈してしまうだろう。しかし、そうならないのがイーストウッドが名監督である理由でもあるし、それを可能にしたのが、事件の当事者に、事件当日とそれまでの旅行を「再現」させるという特殊な演出だ。

 

早撮りの名手、イーストウッド

 元々俳優出身のイーストウッドは、その豊富な撮影経験から独自のスタイルを築き上げてきた。それが、ほぼ全てのカットを1テイクか2テイクほどで切り上げ、照明も使わず自然光で仕上げるという超絶早撮りだ。「何回やってもどれがいいのかわからないから、何回でもリテイクする」というエピソードが有名なスタンリー・キューブリックとは対照的に、「何回やってもそんな変わらないから一回か二回でぱっぱと済ませる」のがイーストウッドなのだ。その象徴として有名なのは、「アメリカンスナイパー」の人形の赤ん坊だろう。

 


The fake baby from American Sniper

 

 映画を撮る上で最も演技させるのが難しいのが、「子役」と「動物」。イーストウッドは「硫黄島からの手紙」の撮影で犬を使ったものの、まったく言うことを聞かずに怒り心頭し、「fuck」としか言わなくなってしまったというエピソードがある。赤ん坊も撮影が難しいものの一つであり、だったら人形でいいや!という極端な結論に達したのがこのシーン。無駄なものを削ぎ落としていった結果、シーンの意図さえ伝われば大した問題ではないというのがイーストウッドの主義なのだろう。

 

 それが頂点に達したとも言えるのが、今回の「15時17分」だ。初めはイーストウッド自身も、ちゃんとした役者を立ててこの映画を作ろうと思っていたらしい。しかし、当事者である彼らから取材で話を聞くうちに、「じゃあ、お前らがやったらいいんじゃね?」というまさかの発想に至り、そしてそれが実行されてしまったのだ。

 私も見る前は、「お芝居とか大丈夫なのかな?」と期待半分だったのだが、映画を見る上で何も違和感がなかった。それもそのはず、彼らは自分自身を演じるのだから、その場面で自分たちがやったことを再現すればいいだけなのだ。そんな風にして、普通の映画ならば平凡でつまらないシーンになってしまいそうな、軍隊での訓練シーンや、ヨーロッパのだらだら旅行のシーンも、ドキュメンタリーなんだかフィクションなんだかわからない絶妙なバランスに支えられてしっかりと見応えがある。

 

何が人を"英雄"にするのか?

 イーストウッドはそのフィルモグラフィーを通じて、「英雄とは何か?」を問い続けてきた作家でもある。前述の「アメリカンスナイパー」では、戦争の英雄であるスナイパーを、直近の作品である「ハドソン川の奇跡」では、飛行機墜落を見事な操縦技術で防いで一躍国民的英雄となったパイロットを描いている。そして今作でもその問いは受け継がれて、テロを勇敢な行いで阻止して英雄となった一人の市民が主人公だ。

 そしてこの、イーストウッド的英雄観が今作では大きく更新される。時には俳優として、そして監督として描いてきたアメリカ的英雄は、ある種特別な素質を持った人物として配置されることが多かった。例えば、彼が主演も務めた「許されざるもの」では、映画が始まる前から主人公のマニーは伝説的な大悪党として名を馳せていたことになっている。「アメリカンスナイパー」では、ブラッドリー・クーパー演じるカイル・クーパーは天才的な狙撃技術を持っているし、「グラン・トリノ」では過去的なアメリカそのものを一人で全て背負った老人が過去の英雄として登場する。

 しかし、パリでテロを防いだ英雄たちは、ただの若者にすぎない。そのことは作品の大半を占める旅行描写や生い立ちで散々語られるし、それだからこそ新しい英雄観を提示する格好のモチーフとなったとも言える。

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「なにか大きな、運命みたいなものに突き動かされてる気がするんだ」

 これは、ヨーロッパ旅行中にベニスの美しい風景を見て主人公のスペンサーが突然口にするセリフである。もちろん後に起こるテロ事件を知っていての発言ではなく、むしろテロとはまったく関係ないただの飲みの場の一言としてぽろんとこの言葉が出てくる。しかし、この作品を最も象徴しているのは、このセリフである。彼らがテロと出会い、それを防ぐまでの一連は、まさに運命としかいいようがないのである。

 例えば彼らがテロ実行犯と同じ電車に乗り合わせたこと。これは明らかに偶然である。そして、主人公たちがアメリカ兵であったこと。これも偶然であるが、結果的にテロを防ぐのに役に立った。さらに、スペンサーはパラメディック(空軍医療部隊)を志望していて、応急処置などの医療技術を学んでいたこと。これは銃撃被害にあった男性に応急処置を施して命を救う偶然に繋がる。そして、元々彼らはテロの舞台となる列車には乗る予定でなかったこと。旅の途中で出会った老人に、「アムステルダムを見ておくべきだ」と言われ、急遽予定を変更してオランダに向かったのだ。もし、彼らが老人と出会わなかったら、彼らはテロにはあっていない。もし、スペンサーが医療を学んでいなかったら、撃たれた男性は亡くなっていただろう。もし、彼らが兵士としてある程度の格闘技術を身につけていなかったら、ヨーロッパ史上最大のテロとして事件は記憶されていたかもしれない。

 そして最も運命的な場面が、スペンサーとテロリストが対峙する場面だ。銃を振り回すテロリストに対して、勇気を振り絞って飛び出していくスペンサー。銃のトリガーが引かれる。しかし弾は出ない。ジャムを起こして一瞬銃が硬直したのだ。これも偶然だ。ただ、これまでの彼らの人生をドキュメンタリー的に体験してきた観客にとっては、それは運命にしか思えない。何か大きな運命によって、スペンサーは英雄になったのだ。

 

フィクションに侵食される現実の倒置としての"再現"

 イーストウッドはただの偶然が人を英雄にしたということを当事者による再現で映画化したが、それは夢を見させる装置としての映画よりも、厳しい現実を写す映画が多くなっている最近の映画界に対して、(自覚的かは置いておくにしても)一つの到達点になったと私は考える。

 この映画は、現実を再現したという意味においては限りなくドキュメンタリーに近い。しかし実際に起きた出来事を意味を持たせるように配置し、演出することで映画として極めて稀な物語性を帯びている。

 今までは特別な能力を持った、一握りの人物しかなれなかった英雄に誰しもがなれる。もしくはそんな状況に直面し得るという現代だからこそこの物語は成立したのではないだろうか。

 「アレッポ」がまるでフィクションのような現実をドキュメンタリーとして映した一方で、イーストウッドは現実を限りなく現実に即して描くことで逆にフィクションになることを証明した。「15時17分、パリ行き」は、そういう意味でイーストウッドの一つの到達点であり、2018年の映画史を語る上で欠かせない傑作になったのではないかと考える。