現役テレビ局員の映画・ドラマ研究記

在京キー局で暗躍するテレビマンが送る、読んだら誰かにこそっと話したくなる映画・ドラマの徹底考察! ※本サイトの見解は全て筆者個人のものであり、特定の会社を利するものではありません。

「アレッポ 最後の男」に見える、恐るべき現代ドキュメンタリーのあり方

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 NHKBS1にて、昨年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた「アレッポ 最後の男」が放送されていました。日本では昨年5月に「世界のドキュメンタリー」という枠で初めて放送され、大きな反響があったということだけ知っていたのですが、それ以後放送はなく、、しかし今回のオスカーノミネートを受けて再放送され、運良く見ることができたのでした。

 

あらすじ

 昼夜を問わず砲弾の雨が降るアレッポで、ホワイト・ヘルメットの一員として活動するハレドは2人の子どもを育てる父親。戦闘機の音が聞こえるたびに空を見上げ爆撃された建物へ向かい、いつ戦闘機が戻ってくるかわからない恐怖と戦いながら人命の救助を行う。人々の命を守りたいと願う彼らだが、家族を危険にさらしてまでここに留まるべきなのか、日々自問自答を繰り返す。戦争とはどのようなものかを克明に描いたドキュメンタリー(NHKオンラインHPより)

日常に入り込んだ戦争

 作品の冒頭では、シリア内戦とそれによって発生した難民の現状が簡潔に示される。2011年に中東・アフリカ諸国を席巻した「アラブの春」の革命の気運はシリアにまで波及し、独裁的な長期政権を築いてきたアサド政権を打倒しようとする運動が起こった。しかし、その運動は国際的な介入によって泥沼化し、ロシアや中国の軍事的支援(ロシアは空爆を行うことで直接的に介入を行っている)を受けたアサド政権側と、アメリカやヨーロッパ諸国の「人道的」支援を受けた反体制側に分かれて凄惨な内戦が長期化することとなった。本作で中心的な人物として登場するハレドは、反体制側の支配地域で「中立、不偏、人道」を掲げて敵味方関係なく人命を救助する「ホワイトヘルメット」の一員である。

 このドキュメンタリーを見ていてまず驚くのは、彼らがあまりにも「普通」に内戦下のシリアで生活していることだ。彼らは活気ある市場で買い物をし、スマホをいじり(そもそも電波はどこから来ているのか?)、子供たちと遊ぶ。その光景のBGMとして、ロシア空軍の爆撃機が旋回する甲高い音が鳴り響く。そして次のシーンになると、爆撃で崩落したビルで救助活動をするホワイトヘルメットの活動が映される。衝撃的なことに、小さな子供の死体ががれきの下から発見され、モザイクも一切入れられない。私がドキュメンタリーで死体を見たのは、NHKの牛山純一さんがプロデュースした「南ベトナム海兵大隊戦記」以来で、しかもそれは放送中止になったものだったからまず普通のドキュメンタリーで死体を見ることはない。しかしこの作品内ではこれを衝撃映像として扱ってもいないし、悲劇の一場面としても扱っていない。ただただ、ホワイトヘルメットの隊員たちが直面する日常の一部として「流れていく」のだ。ここに、現代的ドキュメンタリーの恐ろしい一面がある。

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 この画像は、作品中で重要な場面となる、ハレドが内戦下にある祖国に対する心情を吐露するシーンだ。私はこの美しい画面を見て、単純に「映画みたいだ」と思ってしまった。背景に映る崩落したビル群。そこに佇む主人公。構図とセットがあまりにもフィクションのようで、これが現実の風景なのだということを一瞬忘れてしまう。

 これはひとえに、カメラ性能の飛躍的な向上が影響しているだろう。従来的なカメラが大型で、戦場に持っていくにも一苦労だったのに対して、今はスマホ一つで高画質な動画が撮れるし、シネマカメラも両手に収まるくらいコンパクトになった。これらのカメラによって、どこでもカメラが入り込むことが可能になり、映し出すことのできる現実の範囲は拡張された。

 また、シリア内戦という長期化してしまった戦争状態もこの「非現実」的な「現実」を作った確かな要因だ。ロシア空軍による空爆は、もはや戦争地帯を狙いはせず、民間人の住む居住空間を破壊している。

 

「いつ自分の家が崩れ落ちるかもしれない恐怖と戦いながら暮らしているんだ」

 

 これは、想像もできないシリアの状態を表した言葉だが、確かに今作の背景として映る廃墟は、つい最近まで人の生活があった痕跡がはっきりと残っている。シリアにおける戦場は、兵士と兵士がぶつかる前線地域だけでなく、日常生活にまで入り込んでいる。そんな風に、戦争が侵入した日常をこのドキュメンタリーはひたすらに映していく。

 

街で販売される金魚

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 今作の象徴的な存在として出てくるのが、市場で売られている金魚だ。戦争している国の市場になぜ金魚が並んでいるのか。まったく理解できないが、ハレドは金魚を購入し、街中の噴水の中に飼育している。金魚を飼うという行為は平和だからこそできることでもあるし、内戦中だからこそそんな平和的な存在を求める心理があるのかもしれない。

 その金魚を使った劇的なシーンが終盤出てくる。水槽で優雅に泳ぐ金魚のクロースアップから始まり、カメラがだんだん引いてくる。すると、水槽は瓦礫の中に置かれたものであることが次第にわかってきて、最後には空爆後の廃墟にぽつんと水槽がたたずむという、かなりの異物感がある画面へと変わる。このシーンは、日常的、平和的な存在である金魚が、戦争という非日常の中に完全に取り込まれてしまったシリアの情勢を1カットで表現した恐るべきシーンだ。おそらくこんなカットは劇映画では「逆にあからさますぎて」採用されないだろう。しかしこの、完全にフィクションの産物のような現実が、ドキュメンタリーの中で何度も繰り返されるのだ。

 

「俺、この戦争が終わったら…」

 こんなセリフが、よくある戦争映画ではいわゆる「フラグ」として使われる。そしてあまりにも使い倒されているからこそ、もう今の映画では使われない(真剣な意味では)。

 しかし、この映画の結末はこれだ。夜、娘とスマホでテレビ電話をするハレドは、「家に帰ったらいっぱい遊ぼうね」と告げる。そして次のシーンでハレドは死体となって仲間たちに運ばれてくる。彼は娘と電話した後空爆に巻き込まれて亡くなったということが明らかにされ、唐突に映画は終わる。あまりにも筋書き通りの展開すぎて、見ていて信じられない。しかし、序盤で映された幼児の死体と同様、身動き一つしないハレドの様子を見せつけられ、これが現実に起こったことなのだと納得せざるを得なくなる。病気を取り扱ったドキュメンタリー以外で、対象者の死で終わる作品を見たことなど一度もなかった。

 

フィクション化した現実を映す現代ドキュメンタリー

 「アレッポ」のように、まるで映画のように話が展開するドキュメンタリーが最近増えてきている。今年アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門を受賞した「イカロス」も、最初はドーピングへの単純な好奇心から始まった実験が、国際的な陰謀にまで膨れ上がるという考えられない飛躍をした。おととし公開され、「まるで脚本があるかのよう」と話題になった「カルテルランド」も、メキシコの麻薬戦争を取り扱ったドキュメンタリーで、あまりにも人がタイミングよく死んだり、重要人物が重要な秘密を抱えて乗り込んだ飛行機が墜落したりする。もはや下手な劇映画を見るよりも、ドキュメンタリーの方がより劇的で面白い。このように、現実を超越してしまった「フィクション」と化した現実をとらえ続けるのが、現代ドキュメンタリーの主流となりつつある。

 

 「アレッポ」の実際の公開時間は1時間50分だが、今回私が見たものはテレビ用に編集されて50分しかなかった。しかし、それでも圧倒的な物語性があった。

 Netflixがドキュメンタリーの制作に力を入れていることもあって、これからはドキュメンタリーの市場が活性化することも十分に考えられる。その時、劇映画は一体何を題材にしていくのか。この両者の関係も見物である。

 

 というわけで、「アレッポ 最後の男」に見えた現代ドキュメンタリーのレビューでした。今度こそライトな題材を書きたい、、、、!!笑