現役テレビ局員の映画・ドラマ研究記

在京キー局で暗躍するテレビマンが送る、読んだら誰かにこそっと話したくなる映画・ドラマの徹底考察! ※本サイトの見解は全て筆者個人のものであり、特定の会社を利するものではありません。

「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」に初期スピルバーグ的創造力が見え隠れする【考察・レビュー】

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 2018年3月30日より公開の「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(原題:The Post)。スピルバーグ大好き人間なので即見に行きました。TOHOシネマズ新宿夜の回にて。座席の埋まり具合は半分ぐらい。華金とはいえスピルバーグの新作なのにもう少し盛り上がっててもいいのになあ…。

見終わった感想。「初期スピルバーグ的創造力は失われていなかった!!」

 初期スピルバーグとは、「ジョーズ」とか「未知との遭遇」とか「E.T.」とかあの頃のスピルバーグ。2005年の「ミュンヘン」以来純粋なエンターテイメントからは手を引いて(「金のために映画を撮るのはやめた」と公言していたらしいです)、政治的なメッセージの強い、それでいて映画として素晴らしいフィルモグラフィーが並ぶ反面、「昔のような宇宙人とか怪獣出てくるオタクっぽいスピルバーグ見たいよー!」と私は内心で若干悲しんでいました。特に近年の「リンカーン」、「ブリッジオブスパイ」などは撮影技術や画面内での人間配置、演技など全てに渡って映画のお手本とも言えるほど圧倒的なレベル。もちろんそれらの作品郡も私は尊敬しているのですが、E.T.からスピルバーグに入ったファンとしては、どこかいい子ぶったような、見に行く前にちょっと肩肘張らなくてはいけないような、そんな感覚があったのです。今回も(むしろ政治的メッセージを明らかに打ち出して公開された今作だからこそ)そんな風にして少し厳粛な気持ちを抱えて席についたのですが、だんだん見て行くうちに上記のような「初期スピルバーグ的要素」を次々に発見して嬉しくなりました。では、詳しい考察に入る前にあらすじを。

あらすじ

 1971年、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内には反戦の気運が高まっていた。国防総省ベトナム戦争について客観的に調査・分析する文書を作成していたが、戦争の長期化により、それは7000枚に及ぶ膨大な量に膨れあがっていた。
ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。
ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。
しかし、ニクソン大統領があらゆる手段で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…報道の自由、信念を懸けた“決断”の時は近づいていた。(作品公式HPより)

国家権力とメディア、そして個人

 この映画に込められている政治的メッセージに関しては、様々な媒体で解説がされているので特に言及はしません。あらすじだけを見れば、よくできたポリティカルサスペンス、ということも一発でわかりますし、だからこそ普通の監督がこれを撮っても今作ほどインパクトを持つ作品にならなかったのではないかと思います。そこにスピルバーグの巨匠と呼ばれる理由があるのでしょう。

 「ペンダゴン・ペーパーズ」の持つ基本構造としては、権力を監視する装置としてのメディア=新聞社に務めるブラッドリー(トムハンクス)&ケイ(メリルストリープ)は、実はそれぞれの立場において時の権力者たちと懇意な関係性を持っていた。しかし、1人のメディア人として、個人として、彼らの国家的な裏切りを暴露しなければならない。こうした、国家—メディア、メディア−個人、という葛藤の中で登場人物達は動く事になります。

 それをワンカットで表したシーンが機密文書を入手した中盤に出てきます。それは、ブラッドリーの家で行われる、記者達による機密文書の解明シーン。シーン冒頭、ブラッドリー家の玄関で、政府の要人(ここ誰だったかあやふやですが、とにかくそういう国家的な立場の人物)と会話をするブラッドリー。別れて、部屋に入ると機密文書を明日の朝刊に上げるべく地道な努力を続ける記者達。さらに進むと、キッチンでレモネードの驚異的な売り上げを勘定する娘と奥さん。この三つ、国家−メディア−個人の要素がブラッドリー家という舞台の中で展開され、しかもそれが1カットでシームレスに結ばれている、という驚異的な演出が仕掛けられたシーンが中盤ひとつの山場として出てきます。これは前述のように、国家的な犯罪を暴くために新聞屋として、個人的な人間関係や、そこから生まれる葛藤と戦う1人の人間という構図を強調するための演出ではありますが、その中で表現されるキッチンの人間関係に「初期スピルバーグ的要素」が巧みに入れこまれているのです。

 スピルバーグが描いてきた女性像と今作の”女性”

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 画像は、E.T.で母親役を演じたディー・ウォレスと、今作でトムハンクスの妻を演じたサラ・ポールソンです。どことなく似てませんか?

 私は鑑賞中、サラ・ポールソンがE.T.の冒頭でエリオットに父親のことを聞かれて「メキシコなんて!」と嘆くお母さんの姿をめちゃくちゃ思い出しました。なぜかというと、2人の夫との関係性がかなり似ているからです。

 「E.T.」内での母親は、家庭を大切にしない夫に捨てられ、シングルマザーとしてエリオットを育てています。対して「ペンタゴン・ペーパーズ」でも、仕事を思いっきり家庭にもちこんでいるわけですから、仕事に夫を奪われた女性という構図が成立しています。両者は、どちらも自分以上に大切なものをもってしまった夫に(程度の差こそあれ)ネグレクトされています。

 「未知との遭遇」と「E.T.」がスピルバーグの精神的連作とみなされている理由の一つとして、この男性側の女性に対するスタンスが共通している点があげられます。「未知との遭遇」では、夫である主人公は宇宙人に夢中になって宇宙船に乗り込み、二度と家に帰ってこない。「E.T.」側ではその設定が引き継がれていて、帰ってこなくなってしまった夫をE.T.との関わりを通して別の形で得て、擬似的な家族を復活させる、というサブストーリーが成り立ち、どちらも「夫に捨てられた妻」というテーマが共通しています。これが初期スピルバーグ作品に見られる女性像であり、夫の回復、家族の回復を待ち望む存在として女性が描かれているのです。

 では、今作で似ていると私が考えた母親サラ・ポールソンはどうか?印象的なのは、ブラッドリーが家に仕事を文字通り持ち込んで好き勝手やっているのに、彼女は彼女自身で絵画に夢中でそれをあまり気にしていないようなのです。

現実を取り扱う新聞屋の夫のパートナーとして、アートにハマる妻を配置する。ここでは、初期に見られた「夫を必要とする女性像」を更新して、「アートという拠り所を得ることで妻として独立した女性像」を提示しているように思えるのです。

 ブラッドリーとケイの関係性

 この女性像を最も中心的に描いているのは、ブラッドリー(トムハンクス)とケイ(メリルストリープ)の関係でしょう。両者は機密文書の公開に関する一連の仕事を通して、パートナーとしての関係性を築いていきます。「男性から承認される必要のある女性」ではなく、男性と対等な、独立した人物として女性を設定することで、今作の重要な裏テーマ(こっちの方が本音じゃないのか?)である「女性主導権の回復への戦い」が強固になっています。

 それは、物語終盤を決定づける場面、ケイが記事の掲載を渋る経営陣を初めて自分の声で説得するシーンの素晴らしい演出で示されています。

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 上記の画像を見れば一目でわかる通り、この映画では男性と女性の違いがかなり視覚的に描かれていて、旧来の権力者である男性陣は真っ黒のスーツ、新しく権利を獲得しようと戦う女性を白、その中間で葛藤するブラッドリーをグレーの衣装をつけて表現しています。さらにこのシーンは、画面の中に収まる白vs黒という陣取り合戦がセリフと共に行われていて、メリルストリープの圧倒的な演技と共に最後は白がどう黒たちを従えるか、という人物配置がされています。このシーンのケリのつけ方は、必見です。

 なぜ、ブラッドリーの妻は絵画(アート)をするのか?

 男性と女性が強烈に分断されて描かれるのは、現代の情勢を反映させたのが理由だと言えますが、結果としてはスピルバーグの作家性すらも分断して表現されているように思えるのです。結論からいえば、「政治色の強い世界を映画で描かなければいけなくなったスピルバーグ(ブラッドリー)の家庭内に、アートやレモネードを信じるスピルバーグ(妻)が同居している」のです。

 映画内で最も希望を持つ、可能性を持つ存在として配置されている女性たちは、もはや男性の承認など必要なく、自分たちの力で、決断をしたり(ケイ)、絵画に打ち込んだり(妻)する。これは、スピルバーグが初期作品に持っていたような作家性を女性に託している、つまり新しい可能性を持っているのは女性なんだと言っているように感じるのです。

 女性の中に託されたE.T.的創造力

 この記事の冒頭で、「最近のスピルバーグ作品は肩肘張って見に行かなくちゃいけなくなった」と書きましたが、これはスピルバーグ自身もジレンマとして抱えているのはないだろうかと素人の想像力ですが推測します。エンターテイメントの大家として成功してしまった今、巨匠として宇宙人ばかり描いているわけにはいかなくなってしまった。つまり、テロやトランプ政権の出現が、スピルバーグを無理やり大人の作家にしてしまったのではないかとこの作品を見て思ったのです。これは、自分の作家性を貫いた「シェイプオブウォーター」で今年アカデミー賞を獲ったデルトロとは対照的です。スピルバーグにとっての「シェイプオブウォーター」的創造力は、ブラッドリーの家庭内においてアートを続ける妻の中に押し込められています。しかし、今まで書いてきた通り、女性を未来へ希望を持つ、可能性のある存在として描くことで、まだスピルバーグの中に宇宙人や怪獣は生きているのではないかと感じました。

 オタクなスピルバーグが帰ってくる!


『レディ・プレイヤー1』日本版予告

 こんな風に現代を描きながら自身の作家性を見事に表現した「ペンタゴン・ペーパーズ」をわずか9ヶ月で完成させた(学生映画か!)スピルバーグは、来月早くも新作を公開します。それが、「レディ・プレイヤー・1」です。スピルバーグとしては2005年の「宇宙戦争」以来の13年ぶりのSF映画です。予告を見ればワクワクしてきますよね。ガンダムデロリアン、チャッキー、AKIRAなど、オタク要素満載。特にどうしてもこだわった点として、日本人のアバターの顔を三船敏郎にしたことを上げているように、完全にスピルバーグの趣味全開です。およそ10年に渡るシリアスな映画制作期間を経て、その創造力をアップデートしたスピルバーグが一体どんなSF世界を見せてくれるのか、実はその精神的助走として「ペンタゴン・ペーパーズ」は必見の作品だと言えます。

 以上が今回のレビューになりますが、作家論や過去作品の参照を入れまくって語れる内容だっただけに、長文かつまとまりを若干欠いたものになってしまったような、、、、

 次回はもう少しライトなレビューを書いてみようと思います。